【応永の乱とは】大内義弘と幕府の激突、その背景と結果

室町時代
室町時代中期、幕府と有力守護大名との間で再び緊張が高まった事件が「応永の乱(おうえいのらん)」です。明徳の乱で山名氏を制圧した後、室町幕府は中央集権体制の強化を進めていましたが、それに不満を抱いたのが西国の名門・大内義弘でした。この乱は、足利義満の強硬な政治姿勢に対する守護大名の反発を象徴するものであり、同時に義満の権力をさらに固める契機にもなりました。
 

応永の乱の背景

幕府への不満を強める大内義弘

大内氏は周防・長門などを支配する有力守護で、朝鮮(李氏朝鮮)との貿易を積極的に展開しており、経済的にも独自の権益を持っていました。義弘は足利義満の外交政策や、幕府による諸勢力の統制に対して不満を募らせていきます。明徳の乱以降、義満は守護大名への締め付けを強めており、これが義弘の反発を招いたのです。

日明貿易をめぐる対立

義満は日明貿易の主導権を幕府に集中させる政策を採っており、独自に貿易を行っていた大内氏とは利害が対立します。義弘は自らが貿易の中継港として開発した博多の権益を守ろうとし、幕府と激しく対立する構図になっていきました。

応永の乱の勃発と展開

京都での挙兵

応永6年(1399年)、大内義弘は堺(現在の大阪府堺市)に拠点を置き、幕府に対して挙兵します。堺は貿易港として繁栄しており、大内氏の経済的な基盤でもありました。義弘は周辺の守護たちに呼びかけ、反幕府勢力の結集を図りましたが、明確な同盟関係を築けないまま孤立します。

幕府の大軍による鎮圧

足利義満は即座に対応し、細川頼元・斯波義将などの大軍を派遣。堺を包囲し、激しい攻防戦となりました。義弘は籠城戦に持ち込もうとしましたが、兵力と物資で勝る幕府軍の前に次第に劣勢となり、最終的に堺の館で自刃します。戦闘は短期決戦で終結し、幕府の完全勝利となりました。

応永の乱の影響

大内氏の勢力低下と幕府の支配強化

応永の乱を経て、大内氏の勢力は一時的に衰退します。義弘の死後、大内氏は子の大内盛見が家督を継ぎ、幕府に従属する姿勢を取るようになります。これにより、西国の守護勢力も幕府の支配下に入り、足利義満の権力はさらに安定しました。

港湾都市・堺の運命

堺はこの戦いで大きな被害を受けましたが、その後も貿易都市として再生します。応永の乱以降、幕府は貿易の管理と都市の統制を強めるようになり、堺は幕府直轄の重要な商業都市として発展していくことになります。

重要人物

  • 大内義弘:周防・長門の守護。文化人でもあり、文武に優れた武将とされる。
  • 足利義満:室町幕府第3代将軍。南北朝統一と中央集権体制の確立に尽力した。

まとめ

応永の乱は、足利義満による中央集権の完成に向けた大きな一歩でした。経済的独立を志した大内義弘の挙兵は、政治の現実に押しつぶされる形となりましたが、その背景には地方大名と幕府の複雑な利権構造があります。この乱を通じて、幕府の権威はさらに高まり、室町時代の政治構造は義満中心に大きく傾いていくのです。

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