会津戦争とは?白虎隊の悲劇と鶴ヶ城の籠城戦

江戸時代
幕末、徳川幕府の終焉と明治新政府の誕生という歴史の大転換期に、武士の誇りと忠義を貫いた藩がありました。それが会津藩です。1868年に勃発した「会津戦争」は、徳川への忠誠を貫いた会津藩と、新政府軍との間で繰り広げられた壮絶な戦いでした。ここでは白虎隊の悲劇や鶴ヶ城での籠城戦について詳しくご紹介します。
 

会津戦争の背景

 会津藩は、徳川将軍家に対し代々忠誠を誓ってきた藩の一つであり、特に京都守護職として幕末の京都の治安維持に貢献してきました。 その当主「松平容保(まつだいらかたもり)」は、幕府からの信頼が厚く、尊皇攘夷が吹き荒れる中でも命を賭して職務を果たしてきました。
 しかし1867年、大政奉還により幕府は政権を返上し、翌年の鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍は敗北。会津藩はその責任を問われ、明治新政府から「朝敵」とされてしまいます。その後、会津藩は東北地方の諸藩とともに「奥羽越列藩同盟」を結成し、新政府軍に抵抗する姿勢を明確にします。こうして会津戦争は、戊辰戦争の一局面として本格的に始まりました。

新政府軍の進軍と会津の決意

 1868年8月、新政府軍は総勢3万とも言われる大軍で会津へ侵攻を開始。これに対し、会津藩は約5,000人の兵と城下の民をあげて鶴ヶ城(若松城)に籠城し、徹底抗戦の構えをとります。当時の会津では、藩士だけでなく、農民や町人、女性や子供までもが防衛・看護・炊き出しなどに参加し、藩を支えました。

鶴ヶ城籠城戦(若松城攻防戦)

 8月23日から9月22日まで続いた鶴ヶ城の籠城戦は、まさに死力を尽くす攻防でした。新政府軍は周囲からの徹底包囲と砲撃によって会津を追い詰めていきますが、城中では団結して防戦。女子供を含む多くの民が戦いや救護に関わり、「婦女子までもが弓矢を手に敵に立ち向かった」と記録されています。 しかし食糧も弾薬も尽きて、会津藩は最終的に降伏を決断。9月22日、鶴ヶ城は開城され、会津戦争は終結します。

白虎隊の悲劇

 この戦いの中で最も有名なエピソードが、白虎隊(びゃっこたい)の集団自刃です。白虎隊は16~17歳の少年兵で構成され、主に防衛の補助任務にあたっていました。戦況が悪化する中、城から脱出し飯盛山へ向かった一隊が、遠方に鶴ヶ城が燃えているのを見て「城が落ちた」と誤認します。忠義を胸に抱いた少年たちは、「主君の死に殉ずるべし」として次々に自刃。ただ一人助かった飯沼貞吉の証言によって、この悲劇は後世に語り継がれることになります。

会津戦争の影響とその後

 戦後、松平容保は謹慎処分となり、会津藩も大幅に領地を削減されます。 会津の人々はその後も差別や不遇を受けながら、団結して復興を進め、やがてその誇りと忍耐の精神は「会津魂」として語り継がれるようになります。

戊辰戦争の他の主要な戦い

会津戦争は戊辰戦争の中の一つの戦いとして知られています。そのほかの主な戦いは以下のとおりです。

  • 鳥羽伏見の戦い(戊辰戦争の開戦のきっかけとなった戦い。)
  • 江戸無血開城(西郷隆盛と勝海舟の交渉により江戸は戦火を避けて無血開城した。)
  • 上野戦争(江戸無血開城後に発生した彰義隊(旧幕府側)と新政府軍の戦い。)
  • 北越戦争(越後長岡藩の河井継之助らが新政府軍に抵抗。長岡城の奪還戦は激戦)
  • 箱館戦争(榎本武揚率いる旧幕府軍による戊辰戦争最後の戦い。)

まとめ

会津戦争は、ただの一地方戦争ではなく、武士の忠義と誇り、新しい時代への葛藤、そして人々の悲しみと祈りが凝縮された歴史の一幕です。

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