平清盛が政権を掌握し「平氏全盛」の時代を築くなかで、朝廷や旧勢力の不満は水面下で高まりつつありました。そんな中、後白河法皇の皇子・以仁王(もちひとおう)が挙兵を促す「令旨(りょうじ)」を全国の源氏に発し、平氏打倒の狼煙をあげました。この動きが、のちに源頼朝らによる武家政権樹立へとつながる歴史の分岐点となります。
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以仁王の令旨とは?
平氏に圧迫された皇族の反発
以仁王は後白河法皇の第三皇子で、当初は皇位継承も期待されましたが、平清盛の権力強化に伴いその地位を奪われていきます。清盛は外戚関係を通じて政権を掌握し、自らの孫を天皇に即位させるなど王家をも支配し始めました。この動きに危機感を抱いた以仁王は、密かに討幕の意志を固めていきます。
令旨発布の背景と目的
全国の源氏を結集するための「令旨」
1177年の鹿ケ谷の陰謀の失敗を経て、以仁王は源頼政とともに再び平氏打倒を目指しました。そのために発せられたのが、源氏の各地武士たちに「挙兵せよ」と命じる令旨です。この令旨は、頼朝・義仲・義経らに広まり、のちの全国的な反平氏運動の引き金となりました。
以仁王の挙兵と失敗
南都・奈良方面での武力蜂起
以仁王と源頼政は、1179年の政変で後白河法皇が幽閉されたことを受け、ついに1179年末から翌年にかけて挙兵を決断。南都や園城寺(おんじょうじ)などの寺社勢力を味方につけて戦いますが、平氏軍の素早い対応により敗北します。以仁王は敗走中に討たれ、源頼政も戦死しました。
各地の源氏が呼応し反平氏の流れに
以仁王自身は志半ばで倒れたものの、彼の発した令旨は全国に拡散し、源頼朝や木曽義仲、源義経といった武士たちの挙兵を正当化する「錦の御旗」となりました。これは、のちに展開される「治承・寿永の乱」の端緒として重要な意味を持っています。
重要人物
- 以仁王:後白河法皇の皇子。反平氏の令旨を発し挙兵。
- 源頼政:以仁王に協力した老練の武将。後に討死。
- 源頼朝・義仲・義経:令旨を受け取り各地で挙兵。
まとめ
以仁王の令旨は、表向きには失敗に終わった小規模な反乱ですが、その思想と正統性は多くの武士の心を動かしました。以仁王の死後も、その令旨は武士たちを突き動かす原動力となり、やがて源氏政権誕生という大きな歴史の転換点へとつながっていきます。
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