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俱利伽羅峠の戦いとは?
俱利伽羅峠の地理と戦略的重要性
俱利伽羅峠(くりからとうげ)は、現在の富山県小矢部市と石川県津幡町の境に位置する峠道で、越中と加賀を結ぶ軍事上の要衝でした。この峠を制することは、北陸道から京への進軍を可能にする鍵であり、源平双方にとって譲れない戦場となったのです。
戦いの発生:木曾義仲と平家の激突
1183年、平家は北陸地方の制圧を狙い平維盛(たいらのこれもり)を大将とする大軍を北上させました。これに対し、木曾義仲は少数精鋭の軍で迎え撃つ決断を下します。義仲軍は奇襲を駆使したゲリラ的戦術を得意としており、峠道での戦闘は彼らに有利に働く状況でした。
木曾義仲の戦術と戦いの経過
牛に松明をつけた奇襲「火牛の計」
俱利伽羅峠の戦いで最も有名なのが、義仲の「火牛(かぎゅう)の計」と呼ばれる奇策です。これは、角に松明をくくりつけた牛を夜中に峠道から平家軍陣地へ突進させるというもの。夜の闇の中、猛火を背負って突進してくる無数の牛に驚いた平家軍は大混乱に陥り、自ら崖下に転落する者も多く、壊滅的な損害を受けました。この戦術の真偽については後世の脚色ともされますが、実際に夜襲によって大打撃を与えたことは史実として認められています。
数の劣勢を覆した義仲軍の工夫
義仲軍は数では圧倒的に劣っていましたが、山間の地形を熟知し、分散した部隊による挟撃や夜襲などで戦局を有利に進めました。特に山頂からの矢の一斉射撃や、伏兵による追撃など、ゲリラ的要素を取り入れた戦術が光りました。結果として、義仲軍はほとんど損害を出さずに、平家軍に壊滅的な敗北を与えます。
戦いの結果とその影響
平家の都落ちへ
俱利伽羅峠の敗北により、平維盛は命からがら京都へ撤退。その後の倶利伽羅峠の勝利を受けて、義仲軍は加賀・越前・近江を制し、いよいよ京都を目指して進軍を開始します。この大敗は平家にとって致命的であり、同年7月には安徳天皇を伴って西国へ都落ちするという、平家政権の事実上の崩壊につながりました。
木曾義仲の入京とその後の悲劇
俱利伽羅峠の勝利により名声を得た義仲は、京都に入ることに成功します。しかし、義仲は武力を背景にした粗暴な政治を行い、朝廷や民衆の反感を買います。その結果、後白河法皇は頼朝に対して義仲討伐の命を下し、後に源義経によって討たれることになります。
重要人物
- 木曾義仲:信濃で育ち、地方武士をまとめて源平合戦に参戦した。戦術に長けていた一方、政治面では不器用さが目立った。
- 平維盛:平清盛の孫。華やかな貴族的武将で実戦経験に乏しかったとされる。俱利伽羅峠では戦術に対応できず敗北した。
平安時代の年表
元号 | 天皇 | 時期 | 出来事 |
---|---|---|---|
延暦 | 桓武天皇 | 794年 | 平安京に遷都、平安時代が始まる |
797年 | 「勘解由使(かげゆし)」の設置 | ||
「坂上田村麻呂」が「征夷大将軍」に任命される | |||
弘仁 | 淳和天皇 | 810年 | 「薬子の変」が起こる |
815年 | 京都の治安を守る「検非違使」が設置される | ||
820年 | 「弘仁格式」の制定 | ||
天長 | 仁明天皇 | 833年 | 律令の官選注釈書「令義解(りょうのぎげ)」の完成 |
承和 | 842年 | 「承和の変」が起こる | |
天安 | 清和天皇 | 858年 | 「藤原良房」が事実上の「摂政」となる |
貞観 | 陽成天皇 | 866年 | 「応天門の変」が起こる |
藤原良房が正式に摂政となる | |||
元慶 | 光孝天皇 | 884年 | 「藤原基経」が「光孝天皇」を擁立、「関白」となる |
仁和 | 宇多天皇 | 887年 | 「阿衡の紛議」が起きる |
寛平 | 醍醐天皇 | 894年 | 「遣唐使」が廃止される |
昌泰 | 901年 | 菅原道真が「大宰府」に左遷される | |
承平 | 朱雀天皇 | 935年 | 「平将門の乱」が始まる |
天慶 | 村上天皇 | 939年 | 「藤原純友の乱」が始まる |
天徳 | 958年 | 「乾元大宝」の鋳造が行われる | |
安和 | 円融天皇 | 969年 | 「安和の変」が起こる |
寛和 | 一条天皇 | 986年 | 「藤原兼家」が摂政となる |
長保 | 1001年 | 「枕草子」が完成する | |
長和 | 後一条天皇 | 1016年 | 「藤原道長」が摂政となる |
寛仁 | 1012年 | 「藤原頼通」が摂政となる | |
藤原道長が太政大臣となる | |||
1019年 | 刀伊の入寇(といのにゅうこう)が起こる | ||
藤原頼通が関白となる | |||
万寿 | 1028年 | 「平忠常の乱」が起こる | |
永承 | 後冷泉天皇 | 1051年 | 「前九年の役」が起こる |
1052年 | 藤原頼通が「平等院」を開創する | ||
永保 | 白河天皇 | 1083年 | 「後三年の役」が起こる |
応徳 | 堀河天皇 | 1086年 | 「白河天皇」が上皇となり、院政を開始 |
嘉保 | 1095年 | 「北面の武士」が置かれる | |
嘉承 | 鳥羽天皇 | 1108年 | 「源義親の乱」が起こる |
天治 | 崇徳天皇 | 1124年 | 「中尊寺金色堂」が建立される |
保元 | 二条天皇 | 1156年 | 「保元の乱」が起こる |
1158年 | 後白河天皇が上皇となり、院政を開始 | ||
平治 | 1159年 | 「平治の乱」が起こる | |
仁安 | 高倉天皇 | 1167年 | 平清盛が太政大臣となる |
安元 | 1177年 | 「安元の大火」が起こる | |
治承 | 安徳天皇 | 1179年 | 平清盛が後白河法皇を幽閉する |
1180年 | 「以仁王の令旨」が出される | ||
寿永 | 後鳥羽天皇 | 1183年 | 源義仲が「俱利伽羅峠の戦い」で平氏に勝利 |
1184年 | 「一ノ谷の戦い」で源義経、源範頼が平氏に勝利 | ||
文治 | 1185年 | 「屋島の戦い」が起こる | |
「壇ノ浦の戦い」で平氏が滅亡する | |||
源頼朝が「守護・地頭」の任命権等を得る |
まとめ
俱利伽羅峠の戦いは、奇策「火牛の計」をはじめ、義仲の機転と地の利を活かした戦術によって、大軍を相手に圧倒的勝利を収めた歴史的な戦いです。平家が都を捨てる大きなきっかけとなり、源平の勢力図が大きく変わりました。
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