【嘉吉の変とは】赤松満祐が将軍・足利義教を暗殺した事件とは

室町時代
室町幕府の中期、将軍権力が最も強く振るわれた時代に起きた衝撃的な事件が「嘉吉の変(かきつのへん)」です。この事件では、将軍・足利義教(あしかが よしのり)が、家臣の一人である赤松満祐(あかまつ みつすけ)によって暗殺されるという、日本史上でも数少ない“将軍殺害事件”が発生しました。強権的な政治手法を貫いた義教の支配に対する反発が生んだこの事件は、室町幕府の権威に大きな打撃を与え、以後の政局に深い影響を及ぼします。
 

嘉吉の変の概要

「万人恐怖」の将軍・足利義教

足利義教は、くじ引きで選ばれた将軍として知られ、将軍職に就いてからは、専制的な政治を展開しました。「万人恐怖」とあだ名されるほど、敵味方問わず厳しい処罰を下し、有力守護大名の力を削ぐことを目的とした政治を断行していきます。赤松家に対しても同様で、義教は赤松満祐の勢力拡大を警戒しており、何らかの処分を下す意図があったとされています。

赤松満祐の先手

嘉吉元年(1441年)6月24日、義教は播磨国の赤松邸に赴き、酒宴の席に臨みました。これは義教自身が赤松の処分を下す直前のタイミングであったと見られていますが、先手を打ったのは満祐でした。満祐は、将軍一行の到着とともに手勢を率いて襲撃を仕掛け、義教を殺害。この瞬間、幕府にとって想定外の政変が勃発したのです。

事件後の展開と影響

赤松家の滅亡

義教を殺害した満祐は、そのまま播磨へと退却。直後に幕府は討伐軍を編成し、山名宗全・細川持常らが出陣しました。赤松軍は劣勢に立たされ、最終的に満祐は自害、赤松家も一時的に滅亡に追い込まれました。その後、赤松氏の残党はしばらく雌伏しますが、のちに再興を果たし、戦国時代には再び播磨の大名として台頭します。

将軍殺害という衝撃

この事件は、将軍という存在が「殺され得る」ことを天下に示しました。義教の死によって、幕府の政治は急速に混迷し、後継の足利義勝(わずか8歳)が即位するも短命で終わります。将軍権威が大きく傷ついたことで、以後の室町幕府は守護大名同士の対立を制御できなくなり、「応仁の乱」へと続く戦国時代への足音が高まっていきます。

重要人物

  • 足利義教(あしかが よしのり):室町幕府第6代将軍。天台宗の僧から将軍に抜擢された異色の経歴を持ち、強権政治で知られる。
  • 赤松満祐(あかまつ みつすけ):播磨・備前・美作の守護。義教への恐怖と対立から、将軍殺害を決行した人物。

まとめ

嘉吉の変は、室町幕府の中核を担っていた将軍・足利義教が、家臣である赤松満祐によって暗殺されたという、異常事態でした。強権的な政治がもたらした反発は、結果として幕府の権威を大きく損ない、のちの混乱の土壌となります。この事件は、「室町時代の転機」とも呼ぶべき重大な政変であり、戦国の胎動がはじまる一端を物語っているのです。

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