【寛平の治とは】宇多・醍醐天皇による親政と律令再建

平安時代
平安時代中期、日本の政治は藤原氏による摂関政治へと傾きつつある中で、一時的に天皇自らが政務を主導する「親政」の時代が訪れました。特に第59代・宇多天皇と第60代・醍醐天皇の治世は、政治の刷新と律令制度の再建に尽力した時期として知られ、「寛平の治(かんぴょうのち)」と呼ばれます。この時期は、のちの「延喜・天暦の治」とともに、理想的な天皇親政時代として評価されています。今回はその背景や政治改革の内容、影響を詳しく見ていきましょう。
 

寛平の治の背景

藤原基経の死と宇多天皇の即位

887年、光孝天皇の崩御により、源定省(みなもとのさだみ)から天皇に即位した宇多天皇は、藤原基経に関白として政務を委ねます。しかしその基経が翌年に没すると、宇多天皇は摂政や関白を置かず、自ら政務を執る「親政」に転じます。これが「寛平の治」の始まりでした。

阿衡の紛議の教訓

即位当初、藤原基経との間で「阿衡の紛議」が起きた宇多天皇は、藤原氏の権勢を痛感し、以降は慎重かつ堅実に政務を行います。藤原氏に依存せず、学識に優れた官人や学者を登用し、律令政治の理想の再構築に努めました。

寛平の治の内容と特徴

菅原道真の登用

宇多天皇は学問の力を重視し、特に菅原道真を重用しました。道真は儒学に通じ、政治的見識も高かったことから、蔵人頭・参議へと異例の昇進を遂げ、政策立案にも深く関わります。彼の存在は、貴族中心から実力主義への転換を象徴するものでした。

官吏登用の公正化

宇多天皇は、過度に藤原氏の子弟ばかりが出世する風潮を戒め、試験制度による人材登用を推進しました。これにより、下級貴族や地方官からも優秀な人材が中央政界に進出できるようになり、政治の質が向上しました。

醍醐天皇への継承

宇多天皇は897年、譲位して醍醐天皇が即位します。宇多上皇は出家し、以後は政治に口を出さず、醍醐天皇による完全な親政が始まります。これにより、寛平の治は一時的ではなく、連続した親政の時代として展開されました。

寛平の治の意義と影響

延喜の治への橋渡し

醍醐天皇はその後、「延喜の治」と呼ばれる模範的な親政を行い、律令政治の再建をさらに進めます。寛平の治はその下地を築いたという点で非常に重要です。

藤原氏支配への一時的な歯止め

摂関政治が本格化する前に、天皇による政治主導の可能性が示されたこの時代は、藤原氏の専横に対する一つの対抗例として位置づけられます。特に実力主義の官人登用はその後の官制改革にも影響を与えました。

重要人物

  • 宇多天皇:第59代天皇。藤原基経の死後、関白を置かず親政を行い学者や実力官人を重用した。
  • 醍醐天皇:第60代天皇。父・宇多天皇の政策を引き継ぎ、延喜の治を行って律令政治の理想を追求した。
  • 菅原道真:宇多天皇に重用された学者・政治家。漢詩や儒学に通じ、中央政界で異例の昇進を果たした。

まとめ

寛平の治は宇多・醍醐天皇による連続した親政の時代であり、平安時代における理想的な天皇親政の先駆けでした。藤原氏に頼らず実力ある人材を登用したこの政治は、摂関政治全盛の中にあっても強い光を放っています。短期間ではありましたが、その後の延喜・天暦の治への礎となり、日本の古代国家体制の再構築に重要な役割を果たしました。

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