【引付衆とは】鎌倉幕府の裁判制度を担った実務機関

鎌倉時代
引付衆(ひきつけしゅう)は、鎌倉幕府中期に設置された裁判機関であり、御家人の訴訟を迅速かつ公正に処理するために設けられました。北条時頼の政治改革の一環として誕生し、後の日本の司法行政に大きな影響を与えた制度です。
 

設置の背景と目的

訴訟増加と制度改革

鎌倉幕府の成立から半世紀を経た13世紀半ば、御家人同士の土地相続や境界争いが増加し、従来の裁判機関である問注所だけでは処理しきれなくなっていました。これを受けて、1249年(建長元年)、第5代執権北条時頼が評定衆の下に新たな審理機関として**引付(ひきつけ)**を設置します。目的は、訴訟を迅速・公正に裁くことでした。

組織構成

引付は、「頭人(とうにん)」「引付衆」「引付奉行」の三層構成でした。この制度により、裁判の透明性と効率が飛躍的に高まることとます。

頭人、引付衆、引付奉行
頭人:全体の責任者で、訴訟の進行を統括。
引付衆:主要な審理官で、訴状や証拠を吟味し判決案をまとめる。
引付奉行:実務担当の官僚で、訴訟手続きや文書処理を担う。

引付衆の運用と変遷

初期の運用と人事

設立当初、引付衆には有力御家人が任命されていましたが、次第に北条氏一門の若年者が登用されるようになります。やがて、引付衆は評定衆や幕府中枢への登用前段階としての性格を強め、実務よりも出世コースとしての意味合いが強まりました。実際の訴訟処理は奉行人層が担うようになり、引付衆自体の審理的役割は薄れていきます。

一時的な廃止と再設置

1266年(文永3年)、一時的に引付は廃止されますが、1269年(文永6年)には再び設置されました。再設置の際には定員が3名から5名に増員されています。これは、当時元(モンゴル)からの国書が届いた直後の時期であり、執権・北条時宗が国内の体制強化を意図して行った政治的措置と考えられています。

鎌倉後期の変化と引付の復活

北条貞時の時代

9代執権・北条貞時の時代になると、幕政改革の一環として平頼綱の粛清(霜月騒動、1285年)が行われます。この混乱の中で、一時的に引付は廃止され、代わりに「執奏(しっそう)」という役職が設けられました。しかし、執奏は短期間で終わり、引付制度はすぐに復活しています。幕府における訴訟処理の中心機構として、依然として不可欠な存在だったことがわかります。

引付の審理手続き

訴訟の流れ

引付での裁判は、極めて体系的でした。まず、原告が問注所に訴状を提出し、訴えが受理できるかどうかの審査が行われます。 その後、事件は引付奉行人に回され、原告・被告双方の主張のやり取り(陳状と訴状の提出)が三回繰り返されるのが原則でした。これを「三問三答(さんもんさんとう)」と呼びます。次に、引付が両者を召喚して口頭弁論を行い、そこで得られた証言や証拠をもとに判決案(原案)を作成します。最終的な判決は、上級機関である評定衆によって決定される仕組みでした。

文書主義の発達

この手続きの整備により、鎌倉幕府では文書主義(書面による審理)が定着し、後の日本の裁判制度の原型となりました。引付で作成された文書は「引付状」や「引付奉行人奉書」と呼ばれ、訴訟の記録・判例として保存されました。

引付衆の歴史的意義

幕府官僚制度の完成

引付衆は、単なる裁判機関ではなく、鎌倉幕府の官僚制度を完成させた存在でもあります。北条泰時の法治主義を実際に機能させたのが引付衆であり、御成敗式目と並んで「法の支配」を具現化した制度でした。

影響と継承

その後、引付の制度は京都の六波羅探題や九州の鎮西探題にも導入され、地方統治にも応用されました。 さらに、室町幕府では「政所執事」「奉行衆」などの職制にその理念が受け継がれ、江戸幕府の「評定所」や「奉行所」などの官僚的司法制度の基礎ともなりました。

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