【後醍醐天皇】鎌倉幕府を倒した天皇の理想と挫折|建武の新政と南北朝の動乱

鎌倉時代

後醍醐天皇(ごだいごてんのう、1288~1339年)は、鎌倉幕府を打倒し、天皇親政の復活を目指した異色の天皇です。武家政権が約150年続いた時代において、自ら政治の表舞台に立ち、実力行使によって体制を変えようとした存在は極めて例外的でした。 その挑戦は「建武の新政」として結実しますが、わずか2年半で崩壊。その結果、日本は約60年に及ぶ南北朝の動乱へと突入します。理想に燃えた改革者か、それとも現実を見誤った為政者か、後醍醐天皇は評価が大きく分かれる天皇でもあります。

即位までの歩みと時代背景

両統迭立の時代

後醍醐天皇は、後宇多天皇の第二皇子として誕生しました。当時の朝廷は「大覚寺統」と「持明院統」が交互に天皇を出す両統迭立の体制にあり、皇位継承は幕府の調停によって決められていました。つまり、天皇の地位そのものが鎌倉幕府の政治的管理下にあったのです。 1318年、花園天皇の譲位により後醍醐天皇は即位します。しかし本来は“中継ぎ”と目されていた存在でした。ところが彼は、単なる形式的な天皇にとどまるつもりはありませんでした。

親政の開始

1321年、父・後宇多上皇の院政が停止され後醍醐天皇の親政が始まります。ここから彼は本格的に政治改革へと乗り出します。当時の武家社会では、御家人への恩賞不足や幕府内の権力集中など、矛盾が噴出していました。後醍醐天皇はその不満を利用し、倒幕という大胆な計画を進めていきます。

倒幕計画と元弘の乱

正中の変と失敗

1324年、最初の倒幕計画(正中の変)は密告により失敗。側近の日野資朝らが処罰されました。しかし後醍醐天皇は諦めません。1331年、再び挙兵(元弘の乱)。笠置山に立てこもりますが、幕府軍に敗れて隠岐へ流されます。

隠岐脱出と幕府滅亡

しかし1333年、隠岐を脱出。名和長年らの支援を受けて再起します。これに呼応するように、足利高氏(のちの尊氏)や新田義貞が幕府に反旗を翻しました。新田義貞が鎌倉を攻め落とし、鎌倉幕府は滅亡。こうして武家政権は終焉を迎えます。後醍醐天皇の執念が歴史を動かした瞬間でした。

建武の新政

天皇中心の政治体制

1333年、後醍醐天皇は京都に戻り「建武の新政」を開始します。主な政策は以下の通りです。

  • 鎌倉幕府の廃止
  • 摂関政治の否定
  • 両統迭立の停止
  • 記録所・恩賞方・雑訴決断所の設置

これらの政策により天皇自らが政治を主導し、武家と公家を再編する体制を目指しました。

画期的な制度改革

後醍醐天皇は単なる復古主義者ではありませんでした。土地支配の再整理、裁判制度の整備、強制執行制度の導入地方政権(陸奥将軍府・鎌倉将軍府)の設置などの制度改革を行い、これらは後の室町幕府体制にも影響を与える先進的な構想でした。

なぜ建武の新政は失敗したのか

武士層の不満

倒幕に貢献した武士たちは十分な恩賞を期待していました。しかし後醍醐天皇は、公家中心の人事や皇子への権限集中を優先したことで恩賞配分は遅れ不公平感が広がります。

足利尊氏との対立

北条氏残党の乱(中先代の乱)を鎮圧した足利尊氏は、独自に恩賞を与え、武士の支持を集めます。やがて尊氏は後醍醐天皇と対立し、1336年に京都を制圧。後醍醐天皇は吉野へ移り、ここに南朝が成立しました。こうして日本は南北朝の内乱時代へと突入します。

吉野での晩年と死

吉野に拠った後醍醐天皇は皇子たちを各地に派遣して北朝と戦わせました。しかし戦局は思うように進まず1339年には吉野で崩御されます。敵であった足利尊氏はその菩提を弔うため、京都に天龍寺を建立しました。これは後醍醐天皇の存在感の大きさを物語っています。

後醍醐天皇の評価

厳しい同時代評価

花園天皇は「王家の恥」と批判。江戸時代の新井白石や頼山陽も、その政治を否定的に評価しました。急進的で理想主義的、現実を見誤った統治者という見方です。

革新的な天皇という評価

一方で、土地支配や裁判制度改革など、近世的な国家構想の萌芽を見出す研究もあります。 文化面では、宋学の受容、『建武年中行事』の編纂、禅僧・夢窓疎石の登用、宸翰(国宝指定)など、多方面で功績を残しました。

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