【日本史】徳川家継

江戸時代

徳川家継(とくがわいえつぐ)は、江戸幕府第7代将軍として知られる人物です。1709年に生まれ、わずか5歳で将軍に就任した家継は、歴代徳川将軍の中で最年少の将軍でした。また、8歳で亡くなったことから、征夷大将軍としても史上最年少で亡くなった人物として知られています。

幼い将軍であった家継の治世では、父である第6代将軍徳川家宣の政治を引き継ぐ形で、新井白石や間部詮房といった側近たちが政治を主導しました。この時代は「正徳の治」と呼ばれ、財政や外交の見直しなど、江戸幕府の体制を整える政策が進められた時期でもあります。 本記事では、そんな徳川家継について詳しく解説します!

徳川家継の誕生と後継問題

将軍家に生まれた幼君

徳川家継は1709年(宝永6年)、江戸幕府第6代将軍徳川家宣の四男として江戸城西ノ丸で生まれました。母は側室の於喜世之方で、後に月光院と呼ばれる人物です。幼名は世良田鍋松といい、将軍家の子として育てられました。

家宣には複数の子どもがいましたが、いずれも病弱で幼くして亡くなっていました。そのため、兄弟たちが相次いで早世する中で、鍋松だけが成長することになります。こうして鍋松は幼くして将軍家の唯一の男子となり、将軍継嗣として期待される存在となりました。幼少期の家継は江戸城本丸で育てられ、将軍家の後継者としての教育を受けながら成長していきました。

徳川家宣の死と後継問題

1712年、父である徳川家宣が病に倒れると、江戸幕府では再び将軍後継問題が大きな政治課題となりました。当時の家継はまだ幼く、将軍として政務を担うことが難しい年齢だったためです。

家宣は臨終の際、側近である新井白石や間部詮房に対し、後継者について複数の案を示したと伝えられています。一つは御三家の尾張徳川家の当主である徳川吉通を将軍にする案、もう一つは鍋松を将軍とし、吉通が後見役として政務を補佐するという案でした。

しかし家宣の死後、新井白石は尾張徳川家の将軍就任によって幕府内部で対立が起こる可能性を懸念しました。そのため、幼い鍋松を将軍として擁立し、幕閣が後見する体制を整えるべきだと主張します。幕府内部では幼い将軍に対する不安の声もありましたが、最終的には鍋松が将軍後継者として決定されました。

第7代将軍への就任

朝廷から与えられた将軍の名

本来、徳川将軍家では将軍世子が元服する際、父である将軍から偏諱を受けて名前を与えられる慣例がありました。しかし鍋松の場合、元服前に父の家宣が亡くなってしまったため、この手続きを行う人物がいなくなってしまいました。

そこで幕府は朝廷に協力を求め、当時院政を行っていた霊元上皇が名前を与えることになります。1712年12月、上皇から「家継」という名を書いた宸翰が江戸に送られ、鍋松は正式に徳川家継と名乗ることになりました。

徳川将軍の中で、朝廷から名前を与えられた人物は家継だけであり、この出来事は江戸幕府と朝廷の関係を示す興味深い事例として知られています。

最年少将軍の誕生

1713年、江戸城に勅使と院使を迎えて元服の儀式が行われました。このとき霊元上皇から烏帽子が、中御門天皇から冠が贈られています。同年4月、家継は正式に征夷大将軍に任命され、第7代将軍に就任しました。将軍就任時の年齢はわずか5歳であり、これは徳川将軍の中でも最年少の記録です。

幼い将軍の誕生は幕府にとって大きな試練でもありましたが、家宣時代の側近たちが政治を支えることで幕政の安定が図られることになりました。

幼い将軍を支えた政治体制

新井白石と間部詮房の政治

幼少であった家継に代わり、幕府政治を主導したのが新井白石と間部詮房でした。新井白石は儒学者として知られ、家宣の侍講を務めた学者でもあります。学問に基づく政治理念を持ち、幕政改革の中心人物として活躍しました。一方、間部詮房は家宣の側近として昇進した人物で、将軍の側用人として幕府の実務を担いました。

この二人は家宣の遺志を継ぎ、正徳の治と呼ばれる政治改革を継続していきます。財政政策や外交政策の見直しなど、江戸幕府の統治体制を整えるための改革が進められました。

正徳の治の継続

家継の治世では、父の時代から始まった正徳の改革が引き続き実施されました。1714年には金銀の含有量を回復させた正徳小判が発行され、貨幣価値の安定が図られました。また、1715年には海舶互市新例が制定され、海外貿易を制限することで金銀の流出を抑える政策が取られました。

さらに学問を重視する政策も進められ、寺子屋教育など庶民の教育環境が広がっていきました。このように家継の時代は、文治主義に基づく政治が推進された時期でもありました。

家継の時代に起きた出来事

絵島生島事件

家継の治世で特に有名な出来事として、1714年に起こった絵島生島事件があります。当時の大奥では、家宣の正室である天英院の勢力と、家継の生母である月光院の勢力が対立していました。そんな中、月光院に仕える女中の絵島が歌舞伎役者の生島新五郎と密通したと疑われ、大奥の規律違反が問題となります。

この事件によって絵島は追放され、生島新五郎は島流しとなりました。また関係者や商人など多くの人々が処罰される大事件となりました。

幼君を取り巻く権力争い

家継の治世では、幕府内部の権力関係にも変化が生じました。

新井白石と間部詮房が主導する政治に対し、従来の老中たちの間には不満も存在していました。家宣の時代には将軍の信任によって支えられていた二人でしたが、家宣の死後は政治基盤が弱まり、幕府内部での影響力は次第に低下していきます。幕政では白石や詮房の政策が必ずしも順調に進むとは限らず、幕閣との駆け引きが続くことになりました。

家継の死と江戸幕府の転換

将軍の夭折

1716年、家継は病に倒れます。当時は風邪が悪化して肺炎を引き起こしたと考えられており、治療法の乏しい時代では致命的な病でした。同年4月30日、家継は8歳で亡くなりました。

将軍在位はわずか3年でした。家継の死によって、徳川秀忠から続いていた徳川宗家の血統は途絶えることになります。

徳川吉宗の登場

家継の死後、次の将軍を誰にするかが再び大きな政治問題となりました。

新井白石や間部詮房は尾張徳川家の徳川継友を推しましたが、大奥や幕府内部の支持を受けた紀州徳川家の徳川吉宗が最終的に将軍に選ばれました。

1716年、吉宗は第8代将軍として幕政を担うことになり、江戸幕府の政治は新たな時代を迎えます。吉宗はその後、享保の改革を実施し、幕府政治の立て直しを進めていきました。

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