江戸幕府の歴代将軍の中でも、特に評価が分かれる人物の一人が第9代将軍の徳川家重です。父は江戸幕府を立て直した名君として知られる徳川吉 であり、家重はその長男として将軍家に生まれました。しかし家重は生まれながら身体が弱く、言語が不明瞭で周囲との意思疎通が難しいという大きな障害を抱えていました。
将軍となった家重は、言葉の不自由という困難を抱えながらも信頼できる側近を重用し、幕府政治を運営していきました。彼の治世では経済政策や行政制度の整備が進められる一方で、一揆や飢饉など多くの問題も発生しています。本記事では、そんな徳川家重について詳しく解説します!
将軍の長男として生まれる
紀州徳川家の嫡男として誕生
徳川家重は1712年、江戸赤坂にあった紀州藩邸で生まれました。父は当時紀州藩主であった徳川吉宗で、母は家臣の娘である須磨子でした。幼名は長福丸といい、将軍家の長男として大きな期待を受けて育てられます。
1716年に吉宗が江戸幕府第8代将軍に就任すると、長福丸も父とともに江戸城へ入り、将軍家の後継者としての教育を受けることになりました。将軍家の長男である以上、将来は幕府の頂点に立つ存在として育てられるのが当然でした。しかし幼い頃から家重は体が弱く、周囲と同じような生活を送ることが難しい子供でもありました。
言語障害と虚弱体質という苦難
家重には生まれつき言語障害があり、言葉が非常に聞き取りにくかったと伝えられています。会話をしても周囲の人が理解できないことが多く、意思疎通が大きな問題となっていました。そのため、幼少期の家重は人前に出る機会が少なく、大奥で過ごす時間が多かったとされています。青年になると酒や遊興にふけることも多く、学問や武芸に積極的ではないと見られるようになりました。
ただし伝統芸能である猿楽、すなわち能を観ることを非常に好んでいたといわれています。周囲の人々から理解されにくい状況の中で、こうした芸能が家重にとって心を落ち着かせる存在だったのかもしれません。
将軍継承をめぐる議論
弟・徳川宗武との後継者争い
家重には優秀な弟がいました。それが後に田安徳川家の祖となる徳川宗武です。宗武は学問にも優れ、人格も評価されていたため、多くの幕臣は宗武こそ将軍にふさわしいと考えていました。特に老中の松平乗邑は家重の廃嫡を提案し、宗武を将軍の後継者にするよう主張したとされています。幕府内部では、将軍の跡継ぎをめぐる緊張が高まっていました。
もし家重が後継者から外されれば、徳川家内部の政治バランスが大きく崩れる可能性がありました。将軍家の後継問題は、幕府政治そのものを揺るがしかねない重要な問題だったのです。
父・徳川吉宗が家重を選んだ理由
この難しい問題に対し、最終的に決断を下したのは父の徳川吉宗でした。吉宗はあえて長男である家重を将軍後継者とする道を選びます。その理由の一つは、徳川家の家督相続の原則を守るためでした。将軍の長男ではなく弟を後継者にすれば、将軍家や御三家の間で後継争いが激化する可能性がありました。吉宗はそれを防ぐため、長男相続の原則を維持する必要があると考えたのです。
さらに吉宗が期待していたのは、家重の長男である徳川家治でした。家治は非常に聡明であり、将来有望な人物として評価されていました。家重を将軍に据え、その次の世代である家治に将軍職を継がせるという構想があったとも言われています。
こうして1745年、家重は第9代将軍として江戸幕府の頂点に立つことになりました。
第9代将軍としての政治
享保の改革の制度を維持
1745年、徳川家重 は第9代将軍に就任しました。しかし将軍就任当初の幕府政治は、父である徳川吉宗が大御所として実権を握る体制のもとで運営されていました。吉宗は江戸幕府の財政を立て直すため、「享保の改革」と呼ばれる一連の政策を進めていました。倹約の徹底や新田開発、行政制度の整備などを行い、幕府の財政基盤を安定させることを目指した改革です。
家重の将軍就任後も、こうした政治体制は基本的に維持されました。家重は父の改革を大きく変更するのではなく、既に整えられた制度を継続することで幕政の安定を図ったのです。
1751年に吉宗が亡くなると、家重は名実ともに幕府政治の中心に立つことになります。
勘定吟味役による財政監査
家重の時代には、幕府財政を管理する制度の整備も進められました。その中心となった役職が勘定吟味役です。勘定吟味役は、幕府の財政を監査する役職で、各役所の収支や支出の内容を細かく調査する役割を担っていました。現在でいう会計検査院に近い機能を持つ制度です。
享保の改革の中で整備されたこの制度は、家重の時代にも継続され、幕府の財政運営を安定させる役割を果たしました。こうした制度の維持によって、幕府の行政運営は比較的安定した状態を保つことができました。
酒造統制の緩和と経済政策
家重の時代には、経済政策の見直しも行われています。その代表例が宝暦年間に出された酒造統制の緩和、いわゆる「勝手造り令」です。それまで幕府は米の消費を抑えるため酒造量を厳しく制限していました。しかしこの政策は酒造業の発展を妨げる側面もありました。
そこで幕府は酒造統制を緩和し、酒の生産を比較的自由に認める方針へと転換します。これにより酒造業や流通が活発化し、経済活動の活性化が期待されました。
側用人・大岡忠光による政治補佐
徳川家重の政治を支えた重要な存在が、側用人の大岡忠光です。側用人とは、将軍の側近として政務の伝達や調整を行う役職であり、将軍と幕閣をつなぐ重要な役割を担っていました。
家重は生まれつき言語障害があり、言葉が聞き取りにくかったと伝えられています。そのため幕臣たちとの意思疎通には困難が伴いました。そこで大きな役割を果たしたのが忠光でした。忠光は家重の言葉を理解し、将軍の意思を幕臣たちに伝える役割を担いました。将軍と老中など幕府の中枢との間に立つことで、幕政の円滑な運営を支えたのです。
側用人が政治の中心となる体制は、かつて間部詮房が活躍した時代にも見られました。しかし忠光の場合は権力を私的に乱用することは少なく、幕府の制度の中で調整役として機能していたと評価されています。
田沼意次の登用と新しい政治の芽
家重は自ら積極的に政策を打ち出すタイプの将軍ではありませんでしたが、人材を見抜く力には優れていました。その代表的な例が田沼意次の登用です。田沼意次はもともと足軽の家に生まれた武士でしたが、家重の小姓として仕える中で能力を認められ、次第に幕府内で出世していきました。家重はその政治的手腕を評価し、意次を側衆として取り立てます。
この人事によって、田沼意次は将軍に近い立場で政治経験を積むことになりました。その後、第10代将軍徳川家治の時代に老中となり、幕府政治の中心人物として活躍することになります。
田沼意次の政治は、それまでの農業中心の政策から、商業や流通を重視する政策へと転換を図った点で大きな特徴がありました。株仲間の保護や専売制の導入などを通じて、幕府財政を改善しようとしたのです。このような政策は後に「田沼政治」と呼ばれ、江戸幕府の経済政策に大きな変化をもたらしました。
徳川家重の治世で起きた主な出来事
宝暦期に広がった食糧危機
第9代将軍徳川家重の治世では、各地で自然災害による農業被害が相次ぎ、社会不安が広がりました。特に宝暦年間には冷害や長雨などの影響で農作物の収穫量が大きく減少し、農村では深刻な食糧不足が発生します。
この飢饉は東北地方を中心に被害が大きく、農民の生活は極めて厳しい状況に置かれました。米価は上昇し、都市部でも生活費の高騰が問題となります。農村では年貢の負担に耐えきれなくなった農民が土地を離れる例も増え、社会不安が広がりました。
江戸幕府は飢饉への対応として米の流通管理や救済措置を行いましたが、広範囲にわたる被害を完全に防ぐことはできませんでした。
郡上一揆と幕府の裁判
家重の治世で起きた一揆の中でも特に有名なのが、1754年に美濃国郡上藩で発生した郡上一揆です。
郡上藩では藩財政の悪化を背景に年貢の増徴や厳しい農政が行われていました。これに対して農民たちは強い不満を抱き、ついには江戸へ向かって幕府に直接訴える「越訴」を行います。
越訴は本来重罪とされる行為でしたが、幕府はこの事件を重く受け止め、詳細な調査を行いました。その結果、郡上藩の役人による不正や不当な年貢徴収が明らかになり、藩関係者や幕府役人が処罰されることになります。
木曽三川の大規模治水工事
家重の治世では、幕府による大規模な治水工事も行われました。宝暦年間に美濃国・尾張国の木曽川、長良川、揖斐川の三つの川で行われた治水工事は、後に宝暦治水と呼ばれています。
この地域は洪水が頻発する場所であり、幕府は水害対策として大規模な工事を計画しました。そして工事の実施を命じられたのが、遠く離れた外様大名の島津重年が治める薩摩藩でした。薩摩藩は多額の費用と多くの人員を動員して工事にあたりましたが、工事は非常に困難で、過酷な労働や病気によって多くの犠牲者が出たと伝えられています。
この工事によって薩摩藩の財政は大きな負担を受けることになり、幕府に対する不満が高まる要因の一つとなりました。
将軍引退と晩年
大岡忠光の死と政治体制の変化
家重の政治を長年支えてきた側近が、側用人の大岡忠光でした。忠光は若い頃から家重に仕えており、将軍就任後も最も信頼される家臣として幕政運営を補佐していました。
しかし1760年、忠光が死去すると、家重を支えていた政治体制は大きく揺らぎます。長年政務を補佐してきた側近を失ったことで、家重は将軍として政務を続けることが難しいと考えるようになりました。
将軍職を徳川家治に譲る
同じ1760年、家重は将軍職を長男の徳川家治に譲り、自らは大御所となって政務の第一線から退きます。
家治は幼い頃から聡明な人物として知られており、将来の将軍として期待されていました。また家重の時代に登用された田沼意次などの側近も、家治の政治を支える存在となっていきます。
将軍退任後の晩年
将軍職を退いた後の家重は、大御所として江戸城で静かな生活を送るようになりました。すでに体調も優れず、政治の第一線に立つことはほとんどなかったといわれています。
そして1761年、家重は51歳で亡くなりました。将軍退任からわずか1年後のことでした。家重の死によって、江戸幕府の政治は完全に家治の時代へと移っていきます。

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