江戸幕府の歴史を語るうえで、将軍に就いた人物だけでなく、その周囲にいた有力な血筋の存在もまた重要です。その中でも、将軍の座には就かなかったものの、後の政治に大きな影響を与えた人物が徳川綱重です。
三代将軍徳川家光の三男として生まれ、兄に四代将軍徳川家綱、弟に五代将軍徳川綱吉を持つという、まさに将軍家の中枢に位置した人物でした。さらにその子は六代将軍徳川家宣となり、綱重は「将軍の父」としても歴史に名を残します。本記事では、そんな光格天皇について詳しく解説します!
Contents
将軍家に生まれた綱重の幼少期
厄年の迷信と養育環境
1644年、徳川綱重は三代将軍・徳川家光の三男として誕生しました。母は側室の夏(のちの順性院)です。幼名は長松といい、幼少期から将軍家の一員として厳格な環境のもとで育てられました。
しかし、誕生には当時特有の事情がありました。父・家光が厄年にあたっていたことから、「厄年に生まれた子は育たない」という迷信を避けるため、綱重は家光の姉である千姫(天樹院)の養子とされます。実際の養育は侍女である松坂局が担いましたが、このような配慮からも、将軍家における子の誕生がいかに重要視されていたかがうかがえます。
甲府藩主としての出発
1651年、父・家光の死去に伴い、綱重は若くして甲斐国を中心とする15万石を与えられ、大名としての道を歩み始めます。その後、1661年にはさらに10万石が加増され、25万石の大大名へと成長しました。
また、朝廷から参議に任じられたことにより、「甲府宰相」と呼ばれるようになります。これは単なる官職名ではなく、将軍家の一員としての高い政治的地位を示す称号でもありました。
ただし、綱重は領国である甲斐国に赴くことはほとんどなく、江戸・桜田の屋敷に常住する「定府大名」として生活していました。そのため、実際の藩政は家老である新見正信や諏訪頼郷らが担い、現地では独自の統治が進められていきます。
甲府宰相としての政治と文化
浜屋敷の造営と都市開発

綱重の事績として特に知られているのが、江戸における別邸の建設です。1654年、彼は大規模な工事を行い、甲府浜屋敷を完成させました。この場所は後に浜離宮恩賜庭園として知られることになります。
もともとこの一帯は湿地帯であり、将軍家の鷹狩場として利用されていましたが、綱重はこれを埋め立てて屋敷を造営しました。この事業は単なる別邸建設にとどまらず、江戸の都市開発の一端を担うものでもありました。
後にこの屋敷は将軍家の別邸へと発展し、さらに明治時代には皇室の離宮となるなど、日本の歴史の中で重要な役割を果たすことになります。
学問への関心と治水事業
綱重は武勇だけでなく、知的側面にも優れた人物として評価されています。特に数学者関孝和を抱えるなど、学問に対する理解が深かったことが知られています。
また、領国である甲斐国では、家臣団の主導によって釜無川の治水事業が進められました。その代表例が徳島堰の開削であり、これは農業生産の安定に大きく寄与しました。綱重自身が現地に赴くことはなかったものの、その治世のもとでインフラ整備が進んだ点は、彼の統治の重要な成果の一つといえるでしょう。
将軍後継問題と家族関係
将軍後継候補としての徳川綱重と権力構造
四代将軍徳川家綱に実子がいなかったことは、幕府の将来に大きな影響を及ぼしました。将軍職は世襲が原則であるものの、後継者不在という状況は、幕府の安定そのものを揺るがしかねない問題だったのです。
この中で、後継候補として浮上したのが、家綱の弟である徳川綱重と徳川綱吉でした。年長であり、官位や家格においても遜色のない綱重は、自然と有力な後継候補と見なされるようになります。
しかし、将軍継承は単純な年齢順では決まりません。幕閣や大名たちの思惑、そして本人の資質や健康状態などが複雑に絡み合う政治問題でもありました。綱重は高い評価を受けていた一方で、体調面に不安を抱えていたことが、見えない不安材料として存在していたと考えられます。
嫡男誕生と身分秩序の壁
1662年、綱重は側室との間に長男・虎松をもうけます。この人物が後の徳川家宣です。しかし、その誕生は必ずしも祝福だけに包まれたものではありませんでした。
母が低い身分の出自であったことに加え、正室を迎える前の子であったことから、当時の厳格な身分秩序の中では、後継者として扱うことに慎重にならざるを得なかったのです。そのため虎松は一度、家臣の養子として外に出されるという措置が取られました。
この対応は、将軍家における血統の純粋性と政治的体面を守るためのものであり、同時に綱重自身の立場の微妙さを示すものでもありました。将軍候補という立場にあるからこそ、私的な事情がそのまま政治問題へと直結していたのです。
後継者確定と将来への布石
その後、正室との間に子が生まれなかったことから、綱重は決断を下します。1670年、かつて養子に出していた虎松を呼び戻し、正式な後継者としたのです。このとき虎松は、将軍徳川家綱から一字を与えられ、「綱豊」と改名します。この命名は、単なる改名ではなく、将軍家の血統に正式に組み込まれたことを意味していました。
結果としてこの判断は、後の歴史に決定的な影響を与えます。綱重の死後、さらに徳川綱吉の治世を経て、最終的に綱豊は将軍養子となり、徳川家宣として六代将軍に即位することになります。綱重の選択は、自身の死後においても徳川政権の継続を支える重要な布石となったのです。
朝廷文化と伝統の復興
晩年と早すぎる死
徳川綱重は若年期から必ずしも健康に恵まれていたわけではなく、壮年期に入るとその傾向はより顕著になります。1670年頃にはすでに病床に伏していたとされ、政治の第一線に立ち続けることが難しくなっていました。
将軍後継候補という立場にあった彼にとって、この健康問題は極めて重大な意味を持っていました。いかに家格や能力に優れていても、長期的に政権を担うことができないと判断されれば、後継者としての評価は揺らがざるを得ません。
35歳での死と政局の転換点
1678年、綱重は35歳という若さで死去しました。この死は、単に一大名の死にとどまらず、幕府の権力構造に直接的な影響を与える出来事でした。
当時、将軍家綱には依然として後継者がいなかったため、綱重の死によって有力な継承候補が一人消えたことになります。結果として、将軍継承の流れは弟である徳川綱吉へと大きく傾いていきました。綱重が存命であったならば、将軍に就任していた可能性は十分にあり、その死は歴史の分岐点の一つといえるでしょう。
死後に実現した「将軍家の血統」
綱重の死後、歴史は大きく動きます。1680年、兄である徳川家綱が後継者を残さずに死去し、五代将軍には徳川綱吉が就任しました。
しかし綱吉にも実子がいなかったため、将軍家は再び後継問題に直面します。そこで白羽の矢が立ったのが、綱重の嫡男・綱豊でした。綱豊は綱吉の養子となり、やがて徳川家宣として六代将軍に即位します。
この流れを見れば明らかなように、綱重自身は将軍になることなく生涯を終えましたが、その血統は確実に将軍家へと受け継がれました。彼の存在は、直接的ではなくとも、江戸幕府の中枢に深く影響を与え続けたのです。


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