板倉重昌(いたくら しげまさ)は、江戸幕府初期に活躍した譜代大名であり、徳川家康・秀忠・家光の三代に仕えた武将です。将軍の側近として京都と幕府を結ぶ役割を担いながら、各地で重要な任務を任されてきました。
しかしその生涯は、島原の乱という未曾有の戦乱の中で大きく転機を迎えます。幕府の上使として討伐に向かった重昌は、最前線で自ら突撃し戦死するという最期を遂げました。本記事では、そんな板倉重昌について詳しく解説します!
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幼少期と徳川家への仕官
駿府で生まれた板倉家の次男
板倉重昌は、徳川家の重臣である板倉勝重の次男として、天正16年(1588年)に駿府で生まれました。父の勝重は後に京都所司代を務めるなど幕府の中枢で活躍した人物であり、板倉家は幕府創業期から重要な役割を担っていました。
兄には後に京都所司代となる板倉重宗がおり、重昌は次男として家を支える立場にありました。こうした家柄のもとで、重昌もまた若くして幕府の実務に関わる道を歩むことになります。
徳川家康に仕えた近習出頭人
慶長8年(1603年)、重昌は伏見において徳川家康に召し出され、側近として仕え始めました。その後、家康の参内に供奉し、従五位下内膳正に叙任されるなど、早くから重用されていたことが分かります。
さらに重昌は、松平正綱や秋元泰朝とともに「近習出頭人」として家康の側近に位置づけられ、政務に関わる役割を担いました。この役職は将軍や大御所の意思を伝達する重要な立場であり、重昌が幕府中枢に近い位置にあったことを示しています。
また、朝廷との関係や宗教政策に関わる使者としてたびたび上洛し、猪熊事件やキリシタン弾圧など、当時の重要案件に関与していきました。
幕府の実務を担った武将としての活動
大坂の陣と幕府中枢での役割
板倉重昌は、慶長19年(1614年)の大坂冬の陣、続く元和元年(1615年)の夏の陣に出陣し、天王寺口の守備を担当しました。天王寺口は戦局の要所の一つであり、ここを任されたことは、重昌が一定の信頼を得ていたことを示しています。
冬の陣では講和成立に際し、豊臣秀頼側の誓書を受け取る役割も担っており、単なる戦闘要員にとどまらず、戦後処理にも関与していました。このように、戦場と政治の双方に関わる立場にあった点が特徴です。
大坂の陣後、重昌は知行の加増を受け、家康死去時には5000石を超える大身旗本となっていました。その後は徳川秀忠に仕え、久能山から日光への改葬や東福門院入内といった幕府の重要行事にも供奉しています。
加増と深溝藩の成立

寛永元年(1624年)、父・板倉勝重の死去に伴い、重昌は遺領の一部である6610石を相続しました。これにより、従来の知行と合わせて1万石を超え、三河国深溝において大名としての地位を確立します。
この時期、幕府は譜代大名を各地に配置することで支配体制を強化しており、重昌の大名化もその一環として位置づけられます。その後、総検地による石高の見直しが行われ、深溝藩の石高は1万5000石余にまで拡大しました。
重昌は大名となった後も、将軍の上洛や日光社参への供奉、さらには改易・転封に伴う城の引き渡し役として各地に派遣されました。肥後熊本城や豊前小倉城など複数の重要拠点に関わっており、幕府の統治を実務面から支える役割を果たしていたことが分かります。
島原の乱と最期
上使として九州へ下向
寛永14年(1637年)、島原の乱が発生すると、板倉重昌は幕府の上使として討伐軍の指揮を命じられます。嫡子の重矩とともに江戸を出発し、途中で京都・大坂を経て九州へ向かいました。
しかし、現地での状況は重昌にとって厳しいものでした。動員された西国大名は石高や家格において重昌を上回る者が多く、その指揮に従わない動きも見られました。また、一揆勢は原城に籠城して強固な防御を固めており、戦闘は長期化の様相を呈していました。
こうした状況を受けて、幕府は松平信綱や戸田氏鉄を追加の上使として派遣することを決定しますが、これは重昌が現地に到着した直後のことであり、指揮系統の複雑化を招く要因ともなりました。結果として、重昌は限られた時間の中で成果を求められる立場に置かれることになります。
原城攻撃と戦死
重昌は原城に対する攻撃を開始しますが、籠城する一揆勢の抵抗は激しく、12月の攻撃はいずれも失敗に終わりました。戦況が膠着する中で、重昌は後続の上使が到着する前に戦果を挙げる必要に迫られます。
寛永15年(1638年)元日、重昌は総攻撃を命じますが、準備不足のまま実施されたこの攻撃は、各軍の連携を欠き大きな損害を出しました。数千人規模ともいわれる被害を受け、戦局はむしろ悪化する結果となります。
この攻撃において、重昌は自ら兵を率いて突撃を行い、最前線で戦闘に参加しました。しかし、敵の鉄砲隊による射撃を受け、眉間を撃ち抜かれて戦死します。享年51でした。この戦死は幕府に衝撃を与え、指揮体制や作戦判断の在り方が改めて問われることになります。
板倉重昌の死後と歴史的評価
家の存続と嫡子の活躍
重昌の死後、嫡子の板倉重矩は島原の乱に引き続き参戦し、原城攻めにおいて功績を挙げました。戦後、一時的に処分を受けるものの、その後は幕府に仕え、老中や京都所司代といった要職を歴任します。
重矩の活躍により板倉家は再び勢力を回復し、石高も加増されていきました。以後、板倉家は転封を繰り返しながらも大名家として存続し、最終的には福島藩主として明治維新を迎えます。
このように、重昌の戦死は一時的な打撃ではあったものの、家の存続には大きな影響を与えず、後継者によってその地位は維持されました。
戦死に見る武将としての評価
板倉重昌は、将軍家の側近として幕府の実務を担う一方で、戦場においては自ら前線に立つ武将でもありました。島原の乱における戦死は、その両面を象徴する出来事です。
総攻撃の判断については、準備不足や指揮の混乱を招いた点で後世に議論が残されています。一方で、限られた時間と複雑な指揮体制の中で決断を迫られていた状況も考慮する必要があります。
近年では、幕府の対応全体の中で重昌の行動を捉える見方もあり、後続の上使派遣や情報判断の遅れなど、構造的な問題も指摘されています。重昌の最期は、個人の資質だけでなく、江戸初期の統治体制と軍事指揮の課題を示す事例として評価されています。

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