【昌泰の変とは】菅原道真の左遷と怨霊伝説の始まり

平安時代
平安時代中期、天皇親政のもとで活躍していた学者政治家・菅原道真は、ある日突然、政界を追われて太宰府へ左遷されます。この事件は「昌泰の変(しょうたいのへん)」と呼ばれ、平安貴族社会の権力闘争の一端を示すものとして知られます。また、この左遷ののちに都で起こった災厄の数々が、やがて道真の「怨霊伝説」へとつながっていきました。今回は昌泰の変の経緯とその背景にある権力構造、さらには道真の伝説化について解説します。
 

昌泰の変の背景

菅原道真の異例の昇進

菅原道真は宇多天皇に重用され、学者から参議、右大臣へと異例のスピードで昇進しました。藤原氏以外の人物が政治の中枢に上り詰めたことは、当時としては極めて珍しく、特に藤原時平をはじめとする藤原北家の反発を招くことになります。

醍醐天皇の即位と政権の転換

897年、宇多天皇が譲位し、道真を信任していた醍醐天皇が即位しますが、宇多上皇は出家して政界から退きました。このタイミングで、藤原時平ら藤原氏一門が再び力を強め、道真を排除しようと画策します。

昌泰の変の経緯

冤罪による左遷

901年(昌泰4年)、藤原時平は「菅原道真が自分の娘を東宮(皇太子)に嫁がせて、天皇を廃しようとしている」と醍醐天皇に讒言(ざんげん)します。醍醐天皇はこれを信じ、道真はすべての官職を剥奪されたうえ、太宰権帥として九州・太宰府へ左遷されてしまいます。これが「昌泰の変」と呼ばれる事件です。

太宰府での最期

左遷された道真は、都に戻ることなく903年、太宰府で失意のうちに死去しました。彼の死後、政界では藤原時平が急死するなど異変が相次ぎ、これらは「道真の祟り」として語られるようになります。

昌泰の変の影響と怨霊伝説

相次ぐ天災と貴族の死

道真の死後、都では疫病の流行、清涼殿への落雷、皇族や藤原一門の死去などが相次ぎました。特に清涼殿落雷事件(930年)では、多くの廷臣が命を落とし、これが「道真の怨霊の仕業」として人々の恐怖を呼び起こします。

北野天満宮の創建

都の人々を鎮めるため、朝廷は道真の名誉を回復し「天満大自在天神」として神格化します。そして947年、彼の霊を祀る神社として北野天満宮が創建されました。これが後に全国へ広がる天神信仰の始まりとなります。

重要人物

  • 菅原道真:学者・政治家。宇多・醍醐両天皇に仕えたが左遷。死後、怨霊として恐れられ天神として祀られる。
  • 藤原時平:藤原基経の子。道真の政敵で昌泰の変を主導。後に病死し、道真の祟りと噂された。
  • 宇多天皇:道真を重用した第59代天皇。譲位後、出家し政界を離れる。
  • 醍醐天皇:宇多天皇の子。「昌泰の変」当時の天皇で藤原時平の進言を受けて道真を左遷した。

まとめ

昌泰の変は、政界における藤原氏の勢力拡大と、非藤原系官人の排除という構図が顕著に表れた事件でした。菅原道真の左遷と死はやがて怨霊伝説を生み、後世の神格化にまで至ります。その生涯は、権力闘争の激しさとともに、日本人の「祟り」や「鎮魂」の文化観を象徴するものともいえるでしょう。

コメント

タイトルとURLをコピーしました