【検非違使とは】平安京の治安を守った警察機関の正体

平安時代
平安時代、雅やかな貴族文化の裏には、都の治安を守る重要な役割を担った役人たちがいました。それが「検非違使(けびいし)」です。この記事では、検非違使の役割や歴史、制度としての変遷、そして後世に与えた影響について詳しく解説していきます。
 

検非違使とは?

検非違使の読み方と意味

「検非違使」は「けびいし」と読みます。「検(あらた)め、非(あらず)を違(たが)うことを使(つかさど)る」=「正義を守るために違法を調べる官職」という意味です。天皇に仕える中央官庁のひとつであり、元々は臨時の治安維持機関として設置されましたが、次第に常設機関へと発展し、都の治安維持を担う中心的存在となります。

検非違使の設置と起源

検非違使が正式に設置されたのは、嵯峨天皇の治世(平安時代初期、823年ごろ)とされます。当時の京では、盗賊や夜間の犯罪が横行しており、朝廷は緊急対策として「検非違使庁(けびいしちょう)」を設けました。当初は臨時的なものだったものの、都市の拡大と共に機能が強化され、やがて恒常的な役所として律令制の中に位置づけられていきます。

検非違使の具体的な役割

治安維持・夜間巡回

検非違使の主な任務は、都の治安維持です。特に夜間の巡回や犯罪者の取締り、放火・盗難・殺人などの重大事件の捜査にあたっていました。平安京の夜は灯りも少なく、盗賊の横行する危険な場所でした。検非違使たちは武器を携え、武士を部下として従え、夜の都を巡回していました。

裁判機能と刑罰の執行

検非違使には司法権もあり、事件の調査・取り調べ・裁判まですべてを担当していました。現代で言えば、警察と検察と裁判所が一体化したような機関です。また、判決が下されると、刑の執行にも関与することがありました。

検非違使と武士の関係

武士が都で力を持つ足掛かり

検非違使には、朝廷の命令を実行する実働部隊として「使部(しぶ)」や「随身(ずいしん)」と呼ばれる武士たちが任命されていました。 特に源氏や平氏といった武門の棟梁たちは、この検非違使の役職を経て、都での地位を高めていきました。たとえば、平清盛の父・平忠盛や、源義家の子・源義忠などは検非違使として活躍し、政界での足がかりとしています。

武力による秩序維持の象徴へ

やがて、治安維持に必要な「実力」が求められるようになると、貴族だけでなく武士の力が重視されるようになります。検非違使の活動は、武士による秩序維持という新しい時代の兆しでもありました。

検非違使の制度的変遷

初期:臨時機関から常設機関へ

設置当初は臨時的な役割でしたが、社会の安定化に伴って常設の官職として制度化されていきました。検非違使庁は律令制の中で「弾正台」や「兵部省」などと並ぶ実務的な部署として扱われます。

中期:朝廷の統制強化の象徴

10世紀〜11世紀ごろになると、検非違使は朝廷の直轄下にある強力な執行機関となります。貴族や武士の登用も進み、内部の権力争いの舞台となることもありました。

鎌倉時代以降:形骸化と武士政権への移行

鎌倉幕府が成立すると、警察・裁判権は武士の手に移っていき、検非違使の役割は徐々に失われていきます。ただし、京都を中心とする皇族・貴族社会の中ではその名残が続き、一部の官職としては存続しました。

平安時代の年表

元号天皇時期出来事
延暦桓武天皇794年平安京に遷都、平安時代が始まる
797年勘解由使(かげゆし)」の設置
「坂上田村麻呂」が「征夷大将軍」に任命される
弘仁淳和天皇810年薬子の変」が起こる
815年京都の治安を守る「検非違使」が設置される
820年「弘仁格式」の制定
天長仁明天皇833年律令の官選注釈書「令義解(りょうのぎげ)」の完成
承和842年承和の変」が起こる
天安清和天皇858年「藤原良房」が事実上の「摂政」となる
貞観陽成天皇866年応天門の変」が起こる
藤原良房が正式に摂政となる
元慶光孝天皇884年「藤原基経」が「光孝天皇」を擁立、「関白」となる
仁和宇多天皇887年阿衡の紛議」が起きる
寛平醍醐天皇894年「遣唐使」が廃止される
昌泰901年菅原道真が「大宰府」に左遷される
承平朱雀天皇935年平将門の乱」が始まる
天慶村上天皇939年藤原純友の乱」が始まる
天徳958年「乾元大宝」の鋳造が行われる
安和円融天皇969年安和の変」が起こる
寛和一条天皇986年「藤原兼家」が摂政となる
長保1001年「枕草子」が完成する
長和後一条天皇1016年「藤原道長」が摂政となる
寛仁1012年「藤原頼通」が摂政となる
藤原道長が太政大臣となる
1019年刀伊の入寇(といのにゅうこう)が起こる
藤原頼通が関白となる
万寿1028年平忠常の乱」が起こる
永承後冷泉天皇1051年前九年の役」が起こる
1052年藤原頼通が「平等院」を開創する
永保白河天皇1083年後三年の役」が起こる
応徳堀河天皇1086年「白河天皇」が上皇となり、院政を開始
嘉保1095年「北面の武士」が置かれる
嘉承鳥羽天皇1108年源義親の乱」が起こる
天治崇徳天皇1124年「中尊寺金色堂」が建立される
保元二条天皇1156年保元の乱」が起こる
1158年後白河天皇が上皇となり、院政を開始
平治1159年平治の乱」が起こる
仁安高倉天皇1167年平清盛が太政大臣となる
安元1177年「安元の大火」が起こる
治承安徳天皇1179年平清盛が後白河法皇を幽閉する
1180年以仁王の令旨」が出される
寿永後鳥羽天皇1183年源義仲が「俱利伽羅峠の戦い」で平氏に勝利
1184年一ノ谷の戦い」で源義経、源範頼が平氏に勝利
文治1185年屋島の戦い」が起こる
壇ノ浦の戦い」で平氏が滅亡する
源頼朝が「守護・地頭」の任命権等を得る

まとめ

検非違使は、平安京の治安を守るために設けられた重要な官職でした。都の夜を巡回し、犯罪者を取り締まり、裁判と刑罰を執行するという、現代にも通じる法的実務を担っていた存在です。また、その役職を通じて、武士が中央政界に進出していくきっかけともなりました。

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