【藤原仲麻呂の乱とは】時の権力者の最期と奈良時代の政変劇

奈良時代
奈良時代中期、時の実力者・藤原仲麻呂(のちの恵美押勝)は、聖武天皇や孝謙天皇の信任を背景に、政権を掌握していました。しかし、孝謙上皇と僧・道鏡の接近、そして皇位継承をめぐる対立によって、その立場は一気に崩れていきます。本記事では、「藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱)」の背景、経過、そしてその歴史的意義までを丁寧に解説します。
 

藤原仲麻呂とは?

藤原不比等の孫、期待された政治家

藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ、706年~764年)は、藤原不比等の孫、藤原武智麻呂の子として生まれました。南家の出身で、藤原四家の中でも最も政界で力を持った人物となります。聡明で統治能力に優れた仲麻呂は、聖武天皇からの信任を得て、急速に昇進。光明皇后の甥であったことも彼の政治的立場を強固にしました。

恵美押勝の名と権力の絶頂

749年、孝謙天皇の即位と同時に「恵美押勝(えみのおしかつ)」の名を賜り、事実上の最高権力者にのし上がります。仲麻呂は、天皇親政を掲げて律令制の再建を目指し、唐風の制度導入や軍備強化などに尽力しました。特に東大寺大仏開眼後の混乱収拾などで政務能力の高さを発揮しましたが、同時にその権勢は周囲の反発を招くことになります。

孝謙上皇と道鏡の登場

孝謙上皇と僧・道鏡の関係

754年に孝謙天皇は退位し淳仁天皇が即位しますが、実権は仲麻呂が握り続けていました。しかし、病に倒れた孝謙上皇のそばにいたのが怪僧とも称された道鏡(どうきょう)です。道鏡は上皇の信頼を得て急速に出世し、やがて政界にも大きな影響力を持ち始めます。

藤原仲麻呂vs孝謙上皇・道鏡

藤原仲麻呂は道鏡を危険視し、排除しようとしましたが、逆に孝謙上皇の不興を買います。政治の実権を保持したい仲麻呂と、上皇として院政を敷こうとする孝謙・道鏡勢力の間で、激しい対立が始まりました。

藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱)の勃発

764年、クーデター失敗に終わる

764年、仲麻呂はついに武力蜂起を決意します。孝謙上皇を排し、淳仁天皇の下で政権を安定させることを狙ったものの、事前に計画が漏洩。近江(滋賀県)で軍を挙げた仲麻呂は、京の道鏡勢力との戦いに敗れ、わずか数日のうちに討たれてしまいます。仲麻呂の子どもたちも処刑され、南家の没落が確定します。

藤原仲麻呂の乱の結末

この政変によって、孝謙上皇は淳仁天皇を廃して自ら再即位(称徳天皇)し、道鏡は事実上の宰相として絶大な権勢をふるうようになります。以後、道鏡の専横政治が続き、天皇と僧侶の関係性をめぐる議論も巻き起こりました。

重要人物

  • 藤原仲麻呂:藤原不比等の孫。南家の権力者として絶大な影響力を持つが、道鏡との対立から挙兵し敗死。
  • 孝謙天皇:上皇として道鏡を重用し、仲麻呂と対立。乱後に重祚して称徳天皇となる。
  • 道鏡:法相宗の僧侶。孝謙上皇の寵愛を受けて政権中枢にのし上がり、仲麻呂を失脚させる。

まとめ

藤原仲麻呂の乱は奈良時代中期の最大級の政変であり、皇族・貴族・宗教勢力が入り乱れる政治抗争の典型例です。仲麻呂の敗北は、藤原南家の没落と道鏡の台頭という新たな政治秩序の幕開けを意味しました。

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