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鎮西探題の設置経緯
元寇後の九州防備
鎌倉幕府は、1274年と1281年の元寇を契機に、九州地方の防備を強化する必要に迫られました。弘安9年(1286年)には鎮西奉行が設置され、博多を拠点として九州の訴訟処理や防衛を担当することになりました。当初は複数の奉行が任命され、地域の統治が幕府直轄の監督下に置かれました。
初期の奉行と鎮西探題の誕生
初期の鎮西奉行には、大友頼康、少弐経資、宇都宮通房、渋谷重郷が任命されました。しかし、正応4年(1291年)には奉行の裁判に偏りがあるとの訴えがあり、幕府が調査を行いました。その結果、永仁元年(1293年)に六波羅探題から北条兼時と名越時家が派遣され、鎮西奉行の権限を引き継ぐ形で鎮西探題が設置されました。これにより九州の訴訟処理と異国防禦が一元的に管理されることとなりました。
鎮西探題の組織と権限
組織構成
鎮西探題は博多を拠点に置き、九州地方の御家人を統括しました。設置当初から、行政と裁判の両方に関する権限を有しており、御家人に対して発給される文書は、形式に応じて「鎮西御教書」や「鎮西下知状」と呼ばれました。永仁4年(1296年)からは北条実政による一人体制が確立され、正安元年(1299年)頃には評定衆や引付衆が設置され、組織的に裁判や訴訟を処理できる体制が整いました。
権限と役割
鎮西探題は、九州全域の行政、裁判、沿海防備、御家人の統制、年貢の徴収など幅広い役割を担いました。特に裁判権と防衛権は幕府直轄として強く、地方武士や荘園の管理を通じて鎌倉幕府の支配基盤を九州で確立しました。
鎮西探題の最期と倒幕
元弘の乱と九州の動き
元弘3年(1333年)、後醍醐天皇の討幕運動が九州にも波及します。この年の3月、菊池武時は独自に挙兵しましたが、少弐氏や大友氏、南九州の島津氏らの同調を得られず壊滅しました。その後、流刑先の土佐国を脱出した尊良親王が筑前国に入り、倒幕の旗頭として行動を開始しました。
鎮西探題の滅亡
5月7日に京都で六波羅探題が足利尊氏によって陥落したとの情報が九州に届くと、従順だった少弐貞経や大友貞宗、さらに南九州の島津貞久らが鎮西探題に攻撃を加えました。5月25日、鎮西探題の北条英時は博多で自害し、金沢種時ら一族240名(または340名とも)とともに滅亡しました。このわずか三日前の5月22日には、東国の鎌倉本拠が新田義貞らに攻められ、北条高時を含む主だった北条一門が自害しており、鎌倉幕府そのものもすでに滅亡していました。
鎮西探題の後継と影響
室町・江戸幕府における影響
鎮西探題の制度は、室町幕府の九州統治にも影響を与えました。室町幕府は、鎮西探題に倣って九州探題を設置し、地方支配の仕組みとして活用しました。また、江戸幕府は九州諸藩の監視や天領統治のために西国筋郡代を設置しました。この郡代所は豊後国日田に置かれ、時には「九州探題」とも呼ばれ、鎌倉時代の鎮西探題の制度を参考にしていました。
鎮西探題の歴史的意義
鎮西探題は、鎌倉幕府の九州支配の中心として行政、裁判、防衛の重要な役割を担い、幕府滅亡まで九州政治の中核として機能しました。後世の室町幕府や江戸幕府における九州統治も、この制度の延長線上に位置しています。

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