【阿衡の紛議とは】藤原基経と宇多天皇の政治的駆け引き

平安時代
平安時代中期、天皇中心の政治から、摂政・関白といった藤原氏による実質的な支配体制へと移行していく中で、象徴的な出来事がいくつか起こります。その一つが、阿衡の紛議(あこうのふんぎ)です。この事件は、藤原基経(ふじわらのもとつね)と宇多天皇(うだてんのう)との間に生じた官職名をめぐる対立でした。一見小さな言葉の問題に見えますが、背後には天皇と藤原氏の主導権争いが潜んでいたのです。本記事では、阿衡の紛議の背景、経緯、そして政治史に与えた影響を解説します。
 

阿衡の紛議の背景

宇多天皇の即位と政治改革の兆し

887年、光孝天皇の崩御により、臣籍から天皇に即位した宇多天皇は、藤原氏に対して一定の距離を置こうとする姿勢を見せていました。前任の藤原基経は、先帝の下で関白として政務を取り仕切っており、朝廷内でも圧倒的な影響力を誇っていましたが、宇多天皇は「天皇親政」の理想を掲げ、自立的な政権運営を志していたのです。

藤原基経の権威

藤原基経は藤原良房の子であり、関白として政界に君臨していました。宇多天皇の即位にあたっても基経の協力が不可欠であり、その力を背景に藤原氏の地位は不動に見えました。そんな中、宇多天皇は基経に対して新たな官職「阿衡(あこう)」を与える詔(みことのり)を出します。

阿衡の紛議の経緯と展開

「阿衡」の意味を巡る混乱

宇多天皇は、基経に対して「阿衡の任にあたらしむ」とする詔を出しますが、「阿衡」という言葉が問題になります。『周礼』に基づく中国古典の解釈では、阿衡は「名ばかりの官職で実権を伴わない」とされており、実務を行わない立場と理解されかねないものでした。

基経の反発と辞任

この詔を受け取った基経は激しく反発し、「自分に政治の実権を与えないつもりか」として職務を放棄します。実際には、宇多天皇にそのような意図はなかったともされますが、基経はこの機に天皇の姿勢を牽制したのです。朝廷内では政務が停滞し、やがて宇多天皇は詔を撤回し、基経に謝罪する形となりました。

阿衡の紛議の影響

関白職の正統化

この事件を経て、藤原基経は正式に関白に再任され、事実上の政治の最高責任者としての地位を固めます。関白という役職が、天皇を補佐する「常設の役職」として制度化されたのはこの事件が契機となったとされます。

天皇親政の困難さ

宇多天皇が理想とした天皇中心の親政は、この事件によって挫折を経験します。以後も彼は菅原道真らを登用しつつ藤原氏の力に対抗しようとしますが、基経との対立は明らかに天皇側の不利に終わったと言えるでしょう。これにより、天皇の政治的主導権はますます制限されていくことになります。

重要人物

  • 藤原基経:藤原良房の子。関白として平安政界を主導。阿衡の紛議において天皇の詔に抗議し関白職を制度化させるきっかけを作った。
  • 宇多天皇:第59代天皇。天皇親政を目指し藤原氏に対抗しようとしたが、阿衡の紛議で譲歩を余儀なくされた。

まとめ

阿衡の紛議は単なる官職の名称をめぐる問題にとどまらず、平安時代中期における天皇と藤原氏の政治的力関係を示す象徴的な事件でした。藤原基経の影響力の大きさを改めて印象づけた一方で、宇多天皇の親政の試みは大きな壁に直面しました。この事件を契機に関白職は制度として確立され、以後の摂関政治へと続いていきます。

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