上野戦争とは?彰義隊と新政府軍が激突した幕末最後の市街戦を解説します!

江戸時代
明治維新のさなか、江戸の上野で突如勃発した「上野戦争」。旧幕府軍の残党・彰義隊と新政府軍が激しく衝突したこの戦いは、無血開城された江戸に再び火を灯す、都市型戦争の象徴的事件でした。なぜ平和裏に引き渡されたはずの江戸で戦争が起きたのか? 上野戦争の背景、登場人物、そして戦後の影響についてわかりやすく解説します。
 

上野戦争とは?

上野戦争は、1868年(慶応4年/明治元年)5月15日、現在の東京都台東区・上野で起きた戦闘です。鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍が敗れた後、江戸城は無血開城されたものの、一部の旧幕臣たちはそれに反発。彼らが結成した「彰義隊(しょうぎたい)」が上野・寛永寺に立てこもり、新政府軍と衝突しました。この戦いは1日で終結し、新政府軍が勝利を収めましたが、上野の山は焼け野原となり、多くの死傷者を出しました。

なぜ戦いが起きたのか?

江戸無血開城に尽力した勝海舟や西郷隆盛の和平交渉にもかかわらず、旧幕府の中には徹底抗戦を唱える者たちがいました。その中心が渋沢成一郎や天野八郎らで、徳川慶喜を擁護し続けることを使命とする彰義隊を結成します。彼らは徳川家とゆかりの深い上野・寛永寺に陣を構え、「徳川家の守護」「江戸市民の安全確保」を掲げていましたが、新政府にとっては明らかな反乱軍と見なされ、軍事行動の対象となりました。

上野戦争の経過

5月15日、ついに新政府軍が上野への総攻撃を開始。薩摩・長州・土佐などの諸藩兵に加え、最新兵器アームストロング砲が投入され、わずか半日で彰義隊は壊滅します。寛永寺は焼け落ち、上野一帯は一時混乱に陥りました。なお、彰義隊の残党はその後も東北などへ逃れ、一部は会津戦争や箱館戦争へ参加していきました。

戦後の影響と現在の遺構

上野戦争の戦死者は、現在も上野公園内の「彰義隊墓所」に祀られています。東京の中心部で起きた激しい市街戦の記憶は、石碑や案内板、資料館などで今も語り継がれています。

戊辰戦争の他の主要な戦い

上野戦争は戊辰戦争の中の一つの戦いとして知られています。そのほかの主な戦いは以下のとおりです。

  • 鳥羽伏見の戦い(戊辰戦争の開戦のきっかけとなった戦い。)
  • 江戸無血開城(西郷隆盛と勝海舟の交渉により江戸は戦火を避けて無血開城した。)
  • 北越戦争(越後長岡藩の河井継之助らが新政府軍に抵抗。長岡城の奪還戦は激戦)
  • 会津戦争(会津藩が新政府軍に徹底抗戦。白虎隊の悲劇が起きたことで有名。)
  • 箱館戦争(榎本武揚率いる旧幕府軍による戊辰戦争最後の戦い。)

上野戦争ゆかりの寺社

上野戦争にゆかりのある神社・寺院は主に以下のような場所があります。特に「寛永寺」とその関連施設が重要です。

寛永寺

寛永寺

徳川将軍家の菩提寺で、上野戦争では彰義隊が本陣として立てこもった場所です。戦火で伽藍の多くを焼失しましたが、現在も根本中堂や霊廟などが残り、歴史を今に伝えます。

上野東照宮

上野東照宮

徳川家康を祀る神社で、寛永寺境内の一角にあります。上野戦争では戦火を免れた貴重な建物の一つ。装飾性豊かな社殿は国指定重要文化財にもなっています。

まとめ

上野戦争は、明治維新における大きな転換点のひとつであり、平和裏に見えた政権交代の裏にあった「旧幕府側の矜持」と「近代国家形成の衝突」が如実に表れた事件となりました。

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