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応仁の乱とは?
応仁の乱とは、室町幕府の中枢である守護大名たちが、将軍の後継争いや家督相続を巡って対立し、京都を主戦場に11年にもわたって続いた大規模な内乱です。この乱によって京都は焼け野原となり、幕府の権威は大きく失墜しました。
終結:1477年(文明9年)
主な対立:東軍(細川勝元) vs 西軍(山名宗全)
なぜ起きたのか?応仁の乱の原因について
応仁の乱の背景には、複数の原因が複雑に絡んでいます。
足利将軍家の後継問題
応仁の乱の直接的なきっかけは、8代将軍・足利義政の後継者争いです。当初、義政は弟の「足利義視(よしみ)」を後継に指名していましたが、その後、正室・日野富子との間に男子「義尚(よしひさ)」が誕生。義視と義尚、どちらを後継にするかをめぐって対立が生じます。この争いに守護大名たちが介入し、以下のような構図に発展しました。
派閥 | 支持者 | 主な人物 |
---|---|---|
東軍 | 足利義視 | 細川勝元(管領) |
西軍 | 足利義尚 | 山名宗全(有力守護) |
守護大名の対立
全国の守護大名たちは、自らの勢力を広げるためにこの争いに便乗し、細川派・山名派に分かれていきます。なかでも注目すべきは「畠山氏の家督争い」です。
畠山氏の内紛が戦端を開く
畠山氏は、河内・山城などを治める有力守護大名でした。しかし、畠山義就(よしなり)と畠山政長(まさなが)が家督を巡って争い、両者はそれぞれ西軍・東軍に与しました。1467年、京都で最初に戦闘が始まったのもこの畠山両氏によるものであり、応仁の乱の実質的な開戦とされています。
応仁の乱の経過と特徴

戦いの中心は京都にあり、特に市街地では激しい戦闘が繰り返されました。応仁の乱の初期には、西陣と東陣に分かれて陣地が構築され、町の至る所が戦場となりました。多くの寺院や町家が焼失し、市民生活は大きな打撃を受けました。将軍である義政は中立を保とうとしたものの、調停には失敗。幕府の指導力は著しく低下していきます。戦争は決定的な勝利を収める側が現れないまま長期化し、細川勝元も山名宗全も途中で亡くなり、最終的には自然と戦が終息する形となりました。
応仁の乱の結果と影響
応仁の乱の終結後も、国内は混乱した状態が続きました。幕府の権威は完全に失墜し、地方では守護代や地侍、国人といった在地勢力が自立を始めます。これにより「下剋上」の風潮が加速し、やがて全国各地に戦国大名が登場することになります。つまり、応仁の乱は戦国時代の幕開けであり、日本の政治構造を大きく変えた出来事だったのです。
・守護大名に代わって「戦国大名」が登場
・社会全体に「下剋上」の風潮が広がる
・東山文化(銀閣寺など)が開花した時代でもある
応仁の乱に登場する重要人物
- 足利義政(8代将軍。後継問題が混乱の原因に。銀閣の建立者でもある。)
- 足利義視(義政の弟。東軍から支持される。)
- 足利義尚(義政と日野富子の子。西軍が擁立。)
- 細川勝元(東軍のリーダー。管領として幕政をリード。)
- 山名宗全(西軍のリーダー。勢力大きく「六分の一殿」と呼ばれた。)
- 日野富子(義政の妻。義尚の出産をきっかけに混乱に関与。)
応仁の乱ゆかりの神社
戦乱の痕跡は、現代の京都にも点々と残されています。中でも、応仁の乱と関係の深い神社を3つご紹介します。
建勲神社(船岡山)

応仁の乱の開戦地とされるのが船岡山(京都市北区)です。この地には、後に織田信長を祀る建勲(たけいさお)神社が創建されました。
御霊神社(京都市中京区)

1467年には東軍の畠山政長が御霊の森に立てこもり、西軍の畠山義就と戦いを交えたことで応仁の乱が勃発したことから応仁の乱発祥の地として有名です。
まとめ
応仁の乱は、戦争としての決着がつかないまま終息しましたが、社会への影響は非常に大きなものでした。京都の町は焼け落ち、人々の暮らしは大きく変わりました。勝敗のないまま11年間も続いた戦争は、幕府の権威を失墜させ、戦国時代への道を開きました。
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