箱館戦争とは?土方歳三と榎本武揚が挑んだ、旧幕府軍最後の戦い

江戸時代
「箱館戦争」は、幕末を締めくくる壮絶な戦いであり、五稜郭を拠点にした旧幕府軍が最後の抵抗を試みた戦いです。この記事では、箱館戦争について詳しく解説します。
 

箱館戦争の背景

 1867年、大政奉還により徳川慶喜は政権を朝廷に返上しましたが、新政府側は旧幕府の勢力排除を進め、翌1868年に鳥羽・伏見の戦いが勃発。これを皮切りに、戊辰戦争が全国へと拡大していきます。旧幕府軍の中には、新政府に降らず、武士としての矜持を貫こうとする者たちが多く存在しました。とりわけ、榎本武揚や土方歳三らは徳川家の名誉を守るべく、各地で抵抗を続け、東北戦線の敗北後、最後の拠点として蝦夷地(北海道)を目指すことになります。
 この時点で、江戸はすでに無血開城され、徳川家は駿府に移封されていました。しかし彼らはあくまでも「戦いの継続」を選び、海軍力を頼りに蝦夷の地で「独立政権」を築く決意を固めたのです。

旧幕府軍、蝦夷地へ「蝦夷共和国」の誕生

 1868年10月、榎本武揚率いる旧幕府艦隊は、軍艦8隻と約3,000名の兵士を乗せて品川沖を出航し、蝦夷地へと向かいます。途中、暴風で軍艦が数隻失われるなどの困難を乗り越え、同年11月、箱館に上陸。翌年には松前城を攻略し、蝦夷全域を掌握しました。榎本はこの地に「蝦夷共和国」を建国し、五稜郭を本陣と定めました。選挙により総裁に就任した榎本のもと、新選組の土方歳三、軍監の大鳥圭介、海軍副総裁の荒井郁之助らが中核を担い、近代的な軍政が敷かれました。

新政府軍の北上と激戦の始まり

 しかし、新政府軍はこれを許さず、1869年春、函館湾へ大規模な艦隊を送り込みます。最新鋭の軍艦「甲鉄(こうてつ)」を擁し、陸海両面からの総攻撃を開始しました。旧幕府軍は弁天台場や箱館山を拠点に防戦しましたが、次第に包囲網は狭まり、食糧や弾薬の不足も深刻に。特に市街戦では土方歳三が指揮を執り善戦しますが、5月11日、一本木関門で銃弾に倒れ、戦局は一気に傾きます。

五稜郭の開城と幕末の終焉

五稜郭

 土方の死後、旧幕府軍は総崩れとなり、ついに5月18日、榎本武揚は五稜郭の開城を決意。これにより、戊辰戦争は事実上の終結を迎えました。榎本ら幹部は投獄されますが、その後赦免され、特に榎本は新政府に才能を買われて外務大臣や文部大臣などを歴任。日本の近代化に貢献する人物となります。

箱館戦争の影響とその後

 箱館戦争は、旧幕府軍の組織的抵抗の終焉を意味し、日本全国における戊辰戦争の完全終結を告げるものでした。この戦争の敗北により、旧幕府の武士たちは公的な権力を完全に喪失し、明治新政府の中央集権体制が確立に向かって動き出します。

戊辰戦争の他の主要な戦い

箱館戦争は戊辰戦争の中の一つの戦いとして知られています。そのほかの主な戦いは以下のとおりです。

  • 鳥羽伏見の戦い(戊辰戦争の開戦のきっかけとなった戦い。)
  • 江戸無血開城(西郷隆盛と勝海舟の交渉により江戸は戦火を避けて無血開城した。)
  • 上野戦争(江戸無血開城後に発生した彰義隊(旧幕府側)と新政府軍の戦い。)
  • 北越戦争(越後長岡藩の河井継之助らが新政府軍に抵抗。長岡城の奪還戦は激戦)
  • 会津戦争(会津藩が新政府軍に徹底抗戦。白虎隊の悲劇が起きたことで有名。)

まとめ

箱館戦争は、戊辰戦争の最後を飾る激戦であり、日本の近代化への大きな転換点となりました。旧幕府軍と新政府軍の壮絶な戦いを通して、明治維新の理想と現実、そして多くの人々の想いが交錯しました。戦いの舞台となった函館には、今も志士たちを偲ぶ史跡や慰霊の場所が残されており、歴史の重みを感じさせてくれます。

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