北条貞将は、金沢北条氏の一員として六波羅探題や幕府の政務を担った鎌倉末期の武将です。父は第15代執権となった金沢貞顕で、京都と鎌倉の双方で幕府を支えました。
1333年の鎌倉攻めでは倒幕軍を迎え撃ち、幕府とともに生涯を終えます。「最後の執権」という話でも知られますが、その呼び名だけでなく、京都での任務から最後の防衛へ至る道筋をたどると、彼が置かれた状況がわかります。
ひと目でわかる北条貞将
北条貞将は、金沢貞顕の子として幕府の役職を受け継ぎ、評定衆・六波羅探題・引付頭人を務めた鎌倉末期の武将です。京都と鎌倉で政務を担った後、1333年に鎌倉防衛へ参加し、幕府の滅亡とともに命を落としました。
- 父・金沢貞顕から、幕府に仕える立場と金沢文庫の伝統を受け継ぐ
- 1318年に評定衆となり、幕府の重要な政務や訴訟の合議に加わる
- 六波羅探題として京都へ赴任し、朝廷への対応と治安維持を担う
- 1324年の正中の変のころ、朝廷と幕府の緊張が高まる京都で任務に当たる
- 鎌倉へ戻り、引付頭人として土地をめぐる訴訟の審理を担う
- 元弘の乱が広がり、幕府の政務を担う立場から本拠を守る戦いへ移る
- 1333年、新田義貞の軍勢に対する鎌倉の防衛に参加する
- 鎌倉陥落の際に命を落とし、金沢北条氏の幕府での活動も終わる
- 『太平記』の任命場面の解釈から「最後の執権」と呼ばれることもある
幕府の実務を受け継いだ金沢北条氏
父・貞顕と一族の基盤
北条貞将は、金沢貞顕の子として生まれました。金沢北条氏は、北条実時から続く北条氏の一族です。実時が金沢文庫の基礎を築いたことでも知られ、幕府の政治に関わる一方で、書物や学問を大切にしてきました。
父の金沢貞顕も幕府の重臣として活躍した人物です。京都では六波羅探題を務め、公家や寺院との交流を深めました。その後は鎌倉へ戻って連署となり、1326年には短期間ながら執権にも就いています。
つまり貞将は、幕府の中心で活躍してきた父のもとで、金沢北条氏の次の当主として育ったのです。そして貞将自身も、父と同じように幕府の重要な役職を任されるようになります。
その第一歩となったのが評定衆でした。
評定衆から京都の六波羅探題へ
1318年、貞将は評定衆に加わりました。評定衆とは、執権や連署らとともに幕府の重要な政治や裁判について話し合う役職です。つまり貞将は、武将として戦うだけではなく、幕府の政治を動かす側に加わったことになります。
さらに貞将は、その後六波羅探題となって京都へ向かいました。六波羅探題は、京都に置かれた鎌倉幕府の重要な拠点です。京都の治安を守るだけでなく、朝廷の動きを見守り、西国の武士たちをまとめる役割もありました。父の貞顕も経験した重要な役職であり、貞将も父と同じように京都で幕府を支える立場となったのです。
しかし、このころの京都では大きな問題が起ころうとしていました。後醍醐天皇が、鎌倉幕府による政治に不満を持つ人々と結びつき、幕府を倒そうとする動きを見せ始めていたのです。そして1324年、その動きが表面化し、正中の変が起こります。
朝廷との緊張から関東の危機へ
正中の変のころに京都で任務を担う
1324年、後醍醐天皇の周辺で鎌倉幕府を倒そうとする計画が発覚し、正中の変が起こりました。このころ貞将が務めていた六波羅探題は、京都に置かれた幕府の重要な拠点です。京都の警備だけでなく、朝廷の動きを見守り、問題が起これば鎌倉へ知らせる役割も担っていました。そのため、後醍醐天皇の周辺で倒幕の動きが起こると、六波羅探題はその対応に追われることになります。
貞将が京都で活動していたのは、まさに朝廷と幕府の関係が不安定になり始めた時期でした。このとき正中の変は大きな戦いには発展しませんでした。しかし、後醍醐天皇が幕府を倒そうとする動きは終わったわけではありません。やがてこの対立は、鎌倉幕府そのものを滅亡へ追い込む元弘の乱へとつながっていきます。
元弘の乱が幕府の防衛線を崩す
京都での任務を終えて鎌倉へ戻った貞将は、引付頭人など幕府の重要な役職を務めました。引付は、御家人たちの土地をめぐる争いなどを裁く機関です。貞将は京都の警備や朝廷への対応から、今度は鎌倉で幕府の政治を支える立場になったのです。
ところが1331年、後醍醐天皇が再び幕府打倒に動き、元弘の乱が始まります。当初、幕府は後醍醐天皇を隠岐へ流すなどして反乱を抑えようとしました。しかし楠木正成らの抵抗が続き、各地で幕府に反対する武士が立ち上がるようになります。
そして1333年、幕府にとって決定的な出来事が起こりました。幕府軍として京都へ派遣されていた足利高氏が後醍醐天皇側へ寝返り、六波羅探題を攻撃したのです。京都における幕府の拠点だった六波羅探題は陥落しました。
さらに関東では新田義貞が挙兵し、そのまま鎌倉へ向かいます。京都を失ったうえに、本拠地の鎌倉まで攻められる。鎌倉幕府は一気に滅亡の危機へ追い込まれました。それまで幕府の役人として政治を支えていた貞将も、最後は武将として鎌倉を守る戦いに立つことになります。
鎌倉防衛と貞将の最期
山に囲まれた鎌倉の入口で戦う
1333年、新田義貞の軍勢が鎌倉へ迫りました。鎌倉は三方を山に囲まれているため、大軍が簡単に攻め込める場所ではありません。市内へ入るには、山の間にある限られた道を通る必要がありました。そのため幕府軍は、鎌倉へ通じる主要な入口に兵を配置して新田軍を迎え撃ちます。
貞将が守ったとされるのが、鎌倉北側の入口にあたる巨福呂坂です。『太平記』には、貞将がここで新田軍を相手に激しく戦った様子が描かれています。
しかし、新田軍は巨福呂坂だけを攻めていたわけではありません。極楽寺坂や化粧坂など、複数の方向から鎌倉への突破を狙っていました。幕府軍が一つの入口を守り抜いても、別の場所から突破されれば鎌倉市内へ侵入されてしまいます。
そして、ついに新田軍が鎌倉市内へ突入しました。ここまで来ると、幕府軍は山や切通を利用して敵を食い止めることができません。戦いは鎌倉市内へ移り、北条高時ら幕府の中心人物が集まる東勝寺へと迫っていきました。
幕府とともに終わった生涯と「最後の執権」
鎌倉が新田軍に攻め込まれるなか、貞将も激しい戦いを続けました。『太平記』には、傷を負った貞将が一度北条高時のもとへ戻ったときの印象的な場面が描かれています。高時は貞将の働きを高く評価し、その場で重要な地位を与えたとされています。
貞将はその後、再び戦場へ戻り、幕府を守るために戦って命を落としました。父の金沢貞顕も東勝寺で北条高時らとともに自害しています。こうして父と子は、鎌倉幕府と運命をともにしました。
そして貞将について、現在まで語られているのが「鎌倉幕府最後の執権だった」という説です。『太平記』に描かれた最期の任命を執権への就任とみる考えがあり、そのため貞将を「最後の執権」と紹介することがあります。ただし、正式に執権へ就任したことが確実に確認できるわけではありません。そのため、一般には北条守時が鎌倉幕府最後の執権とされています。
京都では六波羅探題として幕府の西国支配を支え、鎌倉へ戻ると幕府の政治を担い、最後は武将として鎌倉を守るために戦いました。貞将の生涯は、鎌倉幕府を支え続け、最後にはその滅亡とともに終わったのです。

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