豊臣秀長(とよとみひでなが)は、豊臣秀吉の弟として各地の戦いに参加し、大和・紀伊・和泉に広い領地を持った武将です。郡山城を拠点に城下町の整備を進め、朝廷の権大納言という官職に就いたことから「大和大納言」と呼ばれました。
天下統一を進める秀吉には、離れた戦場の軍を指揮し、従った大名との間を取り持ち、獲得した領地を治める人物が必要でした。秀長はその役割を担った一人です。但馬での戦いから四国・九州への出陣、郡山の城下町づくりへと歩みを追うと、「秀吉の弟」という肩書だけでは見えない働きが浮かび上がります。
ひと目でわかる豊臣秀長
豊臣秀長は、兄の秀吉に従って各地の軍勢を率い、大和・紀伊・和泉に領国を持った武将です。郡山城と城下町を整えて商工業を保護し、大名との交渉も担いました。九州攻めにも参加しますが、1591年に郡山城で病没し、養子の秀保が跡を継ぎます。
- 尾張に生まれ、兄の豊臣秀吉に従って軍事・政治の経験を重ねる。
- 但馬の攻略に携わり、1580年に有子山城を落として地域の支配を担う。
- 1585年の紀伊攻略と四国攻めで軍勢を率いる。
- 大和・紀伊・和泉を領し、郡山城と城下町を整えて商工業を保護する。
- 大名との交渉を担う一方、1587年の九州攻めでは日向方面の軍勢を率いる。
- 1591年に郡山城で病没し、養子の秀保が跡を継ぐ。
秀吉のもとで経験を積み、軍勢を率いる
尾張に生まれ、兄とともに織田家の戦いに加わる
秀長は尾張国、現在の愛知県西部に生まれました。生年は天文9年(1540年)とされますが、天文10年(1541年)頃とする説明もあります。若い頃は小一郎と呼ばれ、後に羽柴姓を名乗り、豊臣政権の成立後には豊臣秀長として知られるようになります。
兄の豊臣秀吉が織田信長の家臣として出世するなかで、秀長も兄に従って戦いに加わりました。幼少期の暮らしや仕え始めた時期には不明な点がありますが、秀吉が中国地方の攻略を任される頃には、秀長も一方面の軍勢を率いるようになります。
但馬を攻略し、地域の支配を担う
天正5年(1577年)以降、秀長は秀吉の中国攻めに加わりました。中国攻めは、織田信長の命を受けた秀吉が、中国地方の毛利氏や、それに従う勢力を攻めた一連の戦いです。秀吉は播磨を足場に西へ進み、秀長には但馬方面の攻略を任せました。播磨は現在の兵庫県南西部、但馬は同県北部にあたり、但馬からは山陰の因幡へ通じていました。
天正8年(1580年)、秀長は山名氏の拠点である有子山城を落としました。その後は自ら城に入り、但馬の支配を担います。兄の指揮下で軍勢を率いていた秀長は、攻略した地域の城主として、土地や武士をまとめる立場にもなりました。
天正10年(1582年)、明智光秀が本能寺で信長を襲うと、秀長は秀吉とともに山崎の戦いで光秀方と戦いました。翌年の賤ヶ岳の戦いでも、織田家中の主導権を争う柴田勝家との戦いで兄を支えます。信長の死後に秀吉が政権を築いていくなか、秀長も軍事を任される一族として重用されました。
紀伊・四国で戦い、郡山を本拠にする
1585年、紀伊攻略と四国攻めに参加する
天正13年(1585年)、秀長は秀吉の紀伊攻略に参加しました。紀伊北部には、根来寺を拠点とする根来衆や、雑賀地域の武士たちからなる雑賀衆が勢力を持ち、秀吉と対立していました。秀吉は大坂に近いこの地域を支配下に置くために出兵し、根来寺や雑賀衆の拠点を攻めました。
攻略後、秀長は秀吉の命令で和歌山城の築城を進め、家臣の藤堂高虎が工事に携わりました。戦いで従えた紀伊を治めるため、新たな城を拠点に据えたのです。
同じ年、秀長は四国に勢力を広げていた長宗我部元親を従わせるため、軍勢を率いて阿波へ渡りました。秀長らは木津城を落として一宮城を包囲しましたが、攻略は難航します。そこで兵を分けて周辺の城も攻め、一宮城では包囲網を城際まで近づける「仕寄」を進めました。
この戦いでは、秀吉も離れた場所から指示を送り、諸将に秀長と相談して進めるよう命じていました。秀長は兄の方針を現地の軍に伝え、各部隊の動きをまとめる立場にあったのです。
秀長は一宮城の守将・谷忠澄を通じて元親に講和を提案しました。元親は当初反発しましたが、やがて降伏を決めます。1585年8月初旬、元親に土佐一国の領有を認める条件で講和が成立し、四国での戦いは終わりました。
大和・紀伊・和泉を領し、郡山城へ入る
1585年、秀長は大和・紀伊・和泉に及ぶ広い領地を持つ大名となりました。大和は現在の奈良県、紀伊は和歌山県と三重県南部、和泉は大阪府南部にあたります。所領は「百万石」と呼ばれ、秀長は豊臣一門のなかでも大きな領国を任されました。石高は、土地の生産力を米の量に換算して表す基準です。
同年9月、秀長は兄の秀吉とともに郡山城へ入りました。郡山にはもともと筒井氏の城がありましたが、秀長はそれを大規模に整備し、大和を治める本拠としました。
大和には、領地を持ちながら他国の大名に仕える武士もいました。秀長が領内の武士をまとめるには、他の大名との主従関係を整理する必要がありました。
秀吉は、1585年9月4日付の蒲生氏郷宛秀吉朱印状で、大和の宇陀郡に関係する沢氏・秋山氏について、郡山で秀長に仕えさせるか、氏郷の領国である伊勢へ移すかを選ぶよう指示しました。大和に残る武士を秀長のもとにまとめ、領国を治める体制を整えようとしたのです。
城と城下町を整え、大名との交渉に関わる
郡山城を拡張し、寺社とも向き合う
郡山城の整備にあたり、秀長は奈良一帯から石垣用の石を集めました。城の石垣には墓石や石仏などを別の用途に使った転用石も含まれ、現在もその痕跡を見ることができます。
石材を出す寺社にとって、城の工事は負担を伴いました。興福寺の僧が記した『多聞院日記』には、寺社から石材が集められたことに対する不満も残されています。
大和では、興福寺や春日社に属する地元の武士たちが、地域の政治や軍事に深く関わっていました。秀長は寺社に工事の負担を求める一方、従来の宗教行事にも関与しています。家臣・横浜良慶の書状には、秀長が春日若宮の祭礼を厳正に執り行うよう求めたことが記されています。
郡山城の整備は、秀長の死後も養子の秀保や、後の城主・増田長盛に引き継がれました。
商工業を保護し、町の運営の基礎をつくる
秀長は城下に同じ職業の商人や職人を集め、営業上の特権を認めました。城に集まる家臣たちの暮らしには、食料・衣類・道具を供給する店や職人が必要です。商工業者を保護することで、城を支える町の発展を促しました。
こうした保護政策は、後の「箱本制度」の基礎となりました。これは、城下の町が月ごとに交代で町全体の運営を担当する仕組みです。営業上の特権を認めた朱印状を納める箱を持ち回り、その月の当番となった町を「箱本」と呼びました。
箱本が担った大きな仕事には、町の警護、火事への対応、伝馬の手配がありました。伝馬とは、公用の人や荷物を運ぶために用意する馬のことです。町側は商業上の保護を受ける一方、領主の行政や城下の安全を支える役割を引き受けました。
箱本制度は後の城主や町人たちによっても整えられ、江戸時代へ受け継がれていきました。
大友宗麟の相談を受け、九州攻めに出陣する
天正14年(1586年)、九州で島津氏に圧迫されていた大友宗麟は、秀吉に援軍を求めて大坂を訪れました。宗麟の書状には、公的な相談は秀長が取り次ぐ旨を伝えられたことが記されています。秀長は、援助を求める宗麟と豊臣政権との交渉の窓口を担いました。
翌天正15年(1587年)、秀吉は九州の島津氏を従わせるために大軍を送り、秀長は日向方面の軍勢を率いました。日向は現在の宮崎県にあたり、秀長の軍は島津方の高城を包囲します。島津軍は城を救援するため、近くの根白坂を夜襲しましたが、守る宮部継潤らの部隊と周囲からの援軍に阻まれ、撤退しました。
秀吉の軍も九州を南下し、やがて島津義久は秀吉に降伏します。四国に続き、秀長は複数の大名の軍勢を率いて、豊臣政権の支配を広げる戦いを担いました。
この1587年には朝廷の高い官職である権大納言に任じられました。大和の領主であることと合わせて「大和大納言」と呼ばれるのはこのためです。軍事上の役割だけでなく、朝廷から与えられる地位のうえでも、秀長は豊臣一門を代表する人物となっていました。
1591年に病没し、秀保が跡を継ぐ
郡山城で生涯を終える
天正17年(1589年)末には、秀長は重い病を患っていました。翌年の小田原攻めには出陣せず、畿内の留守居を務めます。同年10月には秀吉が郡山へ見舞いに訪れましたが、天正19年(1591年)、秀長は郡山城で病没しました。
秀長の跡は養子の豊臣秀保が継ぎました。しかし、秀保も文禄4年(1595年)に若くして亡くなり、郡山には増田長盛が入りました。秀長の家は長く領国を引き継ぐことができませんでしたが、城下町の仕組みは後の時代にも受け継がれていきます。
豊臣秀長は、秀吉の弟という立場に加え、軍の指揮・大名との交渉・領国の運営を担うことで、豊臣政権を支えた人物でした。

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