鳥羽・伏見の戦いとは?幕末の転機となった戦いをわかりやすく解説

江戸時代
1868年、江戸幕府と新政府軍との間で勃発した「鳥羽・伏見の戦い」は、日本の歴史を大きく動かした幕末最大の内戦の始まりでした。この戦いをきっかけに、260年以上続いた江戸幕府は崩壊へと向かい、日本は明治という新たな時代へと突き進んでいきます。本記事では、鳥羽・伏見の戦いの背景・経過・結果をわかりやすく解説します。
 

鳥羽・伏見の戦いとは?

鳥羽・伏見の戦いとは、1868年1月3日〜1月6日に発生した旧幕府軍と新政府軍の争いです。この戦いは「戊辰戦争(ぼしんせんそう)」の緒戦として位置づけられ、幕府軍にとっては非常に重要な戦いでした。

基本情報
発生:1868年1月3日〜1月6日
主場所:京都の南、鳥羽・伏見周辺
戦った勢力:旧幕府軍(徳川慶喜を中心)vs新政府軍(薩摩藩・長州藩・土佐藩など)

鳥羽・伏見の戦いはなぜ起きたのか?

きっかけとなったのは、幕府が朝廷の許可を得ずに武力を動かしたことです。1867年の「大政奉還」によって政権を返上した徳川慶喜でしたが、その実態はまだ幕府の影響力を保持しようとするものでした。その後、新政府は「王政復古の大号令」を発し、徳川家を政治の中枢から完全に排除しました。これに不満を抱いた旧幕府側が、京都に進軍したことが戦いの直接の引き金となりました。

鳥羽・伏見の戦いの経過と特徴

旧幕府軍は兵数においては新政府軍を上回っていたものの、最新の西洋式装備を持つ薩摩・長州軍に太刀打ちできませんでした。また、新政府軍は「錦の御旗(にしきのみはた)」を掲げ、天皇の名のもとに戦っていることを強調。これにより、旧幕府軍の士気は著しく低下し、徳川慶喜は大阪城を脱出して江戸に戻ることとなりました。

鳥羽・伏見の戦いの結果とその影響

この戦いの敗北により、幕府の権威は一気に失墜。以後、旧幕府軍は各地で抗戦を続けるも、次第に劣勢となり、明治政府による新しい統治体制が確立されていきました。以後、日本各地で旧幕府派と新政府派の戦いが勃発し、内戦「戊辰戦争」へと発展します。

鳥羽・伏見の戦いの影響
①戊辰戦争の始まりとして重要な意義を持つ
②江戸幕府の実質的な終焉を意味する
③天皇中心の近代国家への移行が加速した

戊辰戦争の他の主要な戦い

鳥羽・伏見の戦いは、戊辰戦争の緒戦です。その後も日本各地で激戦が続きました。

  • 江戸無血開城(西郷隆盛と勝海舟の交渉により江戸は戦火を避けて無血開城した。)
  • 上野戦争(江戸無血開城後に発生した彰義隊(旧幕府側)と新政府軍の戦い。)
  • 北越戦争(越後長岡藩の河井継之助らが新政府軍に抵抗。長岡城の奪還戦は激戦)
  • 会津戦争(会津藩が新政府軍に徹底抗戦。白虎隊の悲劇が起きたことで有名。)
  • 箱館戦争(榎本武揚率いる旧幕府軍による戊辰戦争最後の戦い。)

鳥羽・伏見の戦いのゆかりの地・神社

現在、戦いの舞台となった伏見や鳥羽周辺には、当時の史跡が点在しています。

御香宮神社(ごこうのみやじんじゃ)

伏見の戦場に近くにあり、薩摩藩の陣所にもなった由緒ある神社です。

城南宮(じょうなんぐう)

旧幕府軍の拠点の一つとされる神社で、京都の南の守護神として古くから崇敬を集めてきました。

まとめ

鳥羽・伏見の戦いは、単なる一地域の戦いではなく、日本の歴史を大きく動かした転換点でした。徳川政権の終焉と明治維新の始まりを象徴する戦いであり、日本の歴史上重要な出来事となっています。

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