【承平・天慶の乱とは】平将門・藤原純友の反乱と地方の独立性

平安時代
10世紀前半、律令国家の統制が地方にまで行き届かなくなり、武士たちが台頭し始めた時代。そんな中、関東と西国で同時期に発生した二つの大規模反乱が「承平・天慶の乱」です。関東の平将門、瀬戸内海の藤原純友という二人の人物が中央政府に反旗を翻したこの乱は、後の武士政権誕生にもつながる重要な出来事でした。わかりやすく解説します!
 

背景:律令制の揺らぎと武士の台頭

地方の支配構造が崩れ始める

10世紀になると、中央政府の財政は悪化し、地方に派遣される国司(こくし)も私腹を肥やすようになります。土地所有の形式も公地公民制から私有地(荘園)中心へと変化し、国司に反発する武装勢力が各地で生まれていきました。10世紀になると、中央政府の財政は悪化し、地方に派遣される国司(こくし)も私腹を肥やすようになります。土地所有の形式も公地公民制から私有地(荘園)中心へと変化し、国司に反発する武装勢力が各地で生まれていきました。

武士の起源と地域豪族の力

こうした中、地方では武芸をもって治安を守る存在=「武士」が台頭。朝廷の命に従う一方で、自らの勢力を広げる豪族も現れます。平将門や藤原純友も、こうした社会の変化の中で登場した人物でした。

平将門の乱(承平の乱)

平将門、関東の覇者へ

平将門は桓武平氏の一族で、関東で勢力を拡大していた豪族の出身です。親族間の相続争いや土地問題から武力衝突を繰り返し、ついには常陸・下野・上野などを制圧します。

「新皇」即位と朝廷への挑戦

940年、平将門は自らを「新皇(しんのう)」と称して独立政権を樹立。これは朝廷に対する明確な反逆とされ全国に激震が走ります。関東での「新たな天皇」の誕生は、中央政府にとって許しがたい事態でした。

平貞盛・藤原秀郷との戦いと討伐

朝廷は平将門の従兄弟にあたる平貞盛と、下野の豪族・藤原秀郷に討伐を命じます。将門は一時的に優勢でしたが、天慶3年(940年)、下総・猿島郡での戦いに敗れ戦死。関東の乱は終息しました。

藤原純友の乱(天慶の乱)

元国司から海賊の首領へ

藤原純友は伊予(現在の愛媛県)の元国司で、任期終了後も瀬戸内海に残って勢力を維持していました。海賊たちを束ね、海上交通の要衝を抑えるようになりやがて武装反乱を起こします。

西国の拠点を次々に制圧

純友は大宰府や備前国府など、九州・中国地方の拠点を攻撃し、朝廷の支配に反旗を翻しました。彼の海軍は瀬戸内海一帯を支配下におき、朝廷にとって極めて脅威となりました。

源経基らによる鎮圧

朝廷は武蔵権守・小野好古や、清和源氏の祖・源経基らを派遣し、藤原純友討伐を命じます。天慶4年(941年)、戦局が不利になった藤原純友は伊予へ敗走し、最終的に討たれて乱は終息しました。

承平・天慶の乱の意義とその後

二つの反乱に共通する背景

この乱では、中央の権力が地方に届かず、武士や海賊などが実力で地域を支配するようになったという点が共通しています。中央と地方の分断は、もはや無視できないレベルに達していました。

武士による政治参加の契機

反乱自体は鎮圧されましたが、このとき討伐に活躍した藤原秀郷・平貞盛・源経基らの子孫が、後に武士の名門として成長していきます。この乱をきっかけに、武士が軍事力によって政治に関わる流れが明確になっていくのです。

重要人物

  • 平将門:関東で「新皇」を称して独立を図った。武士の先駆的存在。
  • 藤原純友:伊予で海賊を率いて反乱。瀬戸内海で勢力を拡大。
  • 藤原秀郷:平将門討伐の功労者。武勇で名を馳せた。
  • 平貞盛:平将門の従兄弟。討伐側に立ち平氏の基礎を築く。
  • 源経基:藤原純友討伐に参加。清和源氏の祖として知られる。

まとめ

平将門・藤原純友の反乱は、単なる反乱ではなく、中央集権の限界と地方豪族の台頭を示す大事件でした。将門や純友は敗れましたが、この乱によって「武士が政治に関与する時代」の幕が開きます。承平・天慶の乱は、やがて源平合戦や鎌倉幕府の成立へとつながる武士の歴史の原点と言えるでしょう。

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