【刀伊の入寇とは】女真族の襲来と藤原隆家の防衛戦|平安時代最大の外敵事件

平安時代
11世紀の日本は、天皇を中心とした貴族政治が続く平安時代。外敵の脅威とは無縁にも思えるこの時代に、日本列島は大陸からの侵略を受けました。それが「刀伊の入寇(といのにゅうこう)」です。この記事では、「刀伊の入寇」の背景、経過、影響をわかりやすく解説します。
 

刀伊の入寇とは?

刀伊の読み方と意味

「刀伊(とい)」とは、当時の中国・朝鮮での呼び名で、満州地方から朝鮮半島北部にかけて住んでいた女真族のうちの海賊化した一派を指します。「入寇(にゅうこう)」とは、異民族による襲来・侵略を意味します。つまり、「刀伊の入寇」は「女真族による侵略事件」と言い換えることができます。

発生した時期と場所

1019年(寛仁3年)、朝鮮半島北部の勢力から出発したおよそ50隻の船団が日本列島に向かって襲来しました。侵攻の矛先は、対馬・壱岐・筑前といった九州北部の沿岸地域。彼らは海を越えて島々に上陸し、集落を襲撃して家々を焼き払い、多くの民を虐殺・拉致しました。犠牲となった人々の数は数百人にもおよび、平安時代中期の日本にとって前代未聞の大規模な外敵の襲来となりました。

刀伊の入寇の背景

女真族とは?

女真族は満州地方に起源を持つ騎馬民族で、後に金(きん)や清(しん)といった王朝を築く民族です。11世紀当時はまだ統一された国家を持たず、部族単位で活動していました。その中で、沿海地方を拠点とする一部の集団が略奪目的で海を渡り、朝鮮半島や日本沿岸を狙うようになったのです。

朝鮮半島と高麗の対応

当時の朝鮮半島には高麗王朝が存在しており、刀伊族による略奪に手を焼いていました。刀伊族は高麗を攻撃した後、捕虜や船を手に入れて、日本への遠征を敢行したと考えられています。

日本の防備体制の弱さ

平安時代の日本では、東北の蝦夷討伐や内乱は経験していたものの、外国からの海上襲来は想定されていませんでした。とくに九州の防備は手薄で、対馬や壱岐の防衛は地元民頼みの状態でした。

刀伊の入寇の経過

対馬・壱岐の襲撃

935年、将門と叔父・平国香の抗争が激化。平国香を殺害したことで、他の一族との全面対決が始まります。その後、938年には常陸国司とも対立し、事態が国家レベルの問題へ発展。翌939年には関東8か国の国府を次々と制圧。朝廷の支配が及ばない“独立政権”を樹立します。

朝廷の対応と討伐軍の派遣

1019年春、刀伊族は対馬に上陸し、村を焼き、数百人の住民を殺害・拉致しました。続いて壱岐を襲い、住民の多くが犠牲に。特に女性や子どもが捕らえられ、多くは奴隷として連れ去られました。

博多への接近と太宰府の応戦

刀伊族は壱岐を通過した後、博多湾に進出します。ここで迎え撃ったのが、藤原隆家(ふじわらのたかいえ)を指揮官とする太宰府の防衛軍でした。藤原隆家は地元の武士団や水軍を動員し、陸上・海上から迎撃。刀伊族は反撃に遭って壊滅的被害を受け、博多上陸には至りませんでした。

捕虜の奪還と高麗の協力

敗走した刀伊族は捕虜を連れて朝鮮半島に戻ろうとしましたが、途中で高麗水軍に襲撃され、多くの日本人捕虜が解放されました。高麗からは日本に対して「捕虜を保護して返還する」という書簡が送られ、日本との外交関係も安定化に向かいます。

刀伊の入寇の影響と意義

日本の国防意識の変化

この事件を契機に、日本国内では「外国からの襲来」の脅威が現実のものとして認識されるようになります。九州防衛の強化、武士の重要性の増大など後の武家社会の形成にもつながる動きが始まりました。

藤原隆家の評価

藤原隆家は中央では失脚しかけた人物でしたが、太宰府での働きにより名誉を回復。武士と貴族の「現地実務」の融合という、のちの鎌倉政権につながる原型がここに見られます。

高麗との関係強化

高麗が日本人捕虜の返還に協力したことで、日本と高麗の間に友好関係が築かれる一因となりました。外交的に大きな転換点とも言えます。

重要人物

  • 藤原隆家:刀伊の入寇において太宰府での防衛を指揮し、異民族撃退の立役者となる。

平安時代の年表

元号天皇時期出来事
延暦桓武天皇794年平安京に遷都、平安時代が始まる
797年勘解由使(かげゆし)」の設置
「坂上田村麻呂」が「征夷大将軍」に任命される
弘仁淳和天皇810年薬子の変」が起こる
815年京都の治安を守る「検非違使」が設置される
820年「弘仁格式」の制定
天長仁明天皇833年律令の官選注釈書「令義解(りょうのぎげ)」の完成
承和842年承和の変」が起こる
天安清和天皇858年「藤原良房」が事実上の「摂政」となる
貞観陽成天皇866年応天門の変」が起こる
藤原良房が正式に摂政となる
元慶光孝天皇884年「藤原基経」が「光孝天皇」を擁立、「関白」となる
仁和宇多天皇887年阿衡の紛議」が起きる
寛平醍醐天皇894年「遣唐使」が廃止される
昌泰901年菅原道真が「大宰府」に左遷される
承平朱雀天皇935年平将門の乱」が始まる
天慶村上天皇939年藤原純友の乱」が始まる
天徳958年「乾元大宝」の鋳造が行われる
安和円融天皇969年安和の変」が起こる
寛和一条天皇986年「藤原兼家」が摂政となる
長保1001年「枕草子」が完成する
長和後一条天皇1016年「藤原道長」が摂政となる
寛仁1012年「藤原頼通」が摂政となる
藤原道長が太政大臣となる
1019年刀伊の入寇(といのにゅうこう)が起こる
藤原頼通が関白となる
万寿1028年平忠常の乱」が起こる
永承後冷泉天皇1051年前九年の役」が起こる
1052年藤原頼通が「平等院」を開創する
永保白河天皇1083年後三年の役」が起こる
応徳堀河天皇1086年「白河天皇」が上皇となり、院政を開始
嘉保1095年「北面の武士」が置かれる
嘉承鳥羽天皇1108年源義親の乱」が起こる
天治崇徳天皇1124年「中尊寺金色堂」が建立される
保元二条天皇1156年保元の乱」が起こる
1158年後白河天皇が上皇となり、院政を開始
平治1159年平治の乱」が起こる
仁安高倉天皇1167年平清盛が太政大臣となる
安元1177年「安元の大火」が起こる
治承安徳天皇1179年平清盛が後白河法皇を幽閉する
1180年以仁王の令旨」が出される
寿永後鳥羽天皇1183年源義仲が「俱利伽羅峠の戦い」で平氏に勝利
1184年一ノ谷の戦い」で源義経、源範頼が平氏に勝利
文治1185年屋島の戦い」が起こる
壇ノ浦の戦い」で平氏が滅亡する
源頼朝が「守護・地頭」の任命権等を得る

まとめ

刀伊の入寇は、平安時代中期における日本最大級の外敵襲来事件でした。これまで内政中心だった平安時代の人々にとって、海を越えてやってきた異民族の脅威は衝撃的な出来事でした。藤原隆家の活躍、高麗との外交、そして国防体制の見直しなど、この事件が残した影響は決して小さくありません。のちの蒙古襲来や倭寇時代に続く「対外意識」の原点とも言えます。

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