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事件の背景|なぜ橘奈良麻呂はクーデターを企てたのか?
藤原仲麻呂の台頭と政敵の粛清
橘奈良麻呂の変が起きた最大の要因は、藤原仲麻呂(後の恵美押勝)の急速な台頭です。彼は藤原不比等の曾孫にあたり、孝謙天皇のもとで急速に権力を握っていきました。特に、聖武天皇・光明皇后の信任を受けていた仲麻呂は、政敵を一掃し、自身の政策を推進。玄昉や吉備真備など先行して台頭していた官人を追い落とし、橘家や他の皇族にとっては脅威となっていました。
皇位継承をめぐる不安と藤原氏の影
当時の皇位継承問題も、橘奈良麻呂の動機に深く関係します。聖武天皇の娘である孝謙天皇が即位していましたが、次代の皇位を誰が継ぐかについては不透明でした。橘奈良麻呂らは、藤原仲麻呂が自らの意のままに皇位を操作しようとしていると危機感を抱き、天武系の皇族を担いで政権奪取を目論んだと考えられます。
橘諸兄の息子としての危機感
橘奈良麻呂の父・橘諸兄は、一時は聖武天皇のもとで政権を担った大臣でしたが、仲麻呂の台頭によってその勢力は衰退していました。奈良麻呂は、藤原氏に主導権を握られることで橘家の没落を恐れたとも言われています。
橘奈良麻呂の変の経過|未然に防がれた政変
事件の首謀者たち
橘奈良麻呂は、複数の皇族(多治比犢養、黄文王、塩焼王)や官人(佐伯全成)とともに計画を進めました。共謀者には以下のような人物が含まれます。彼らは、仲麻呂を排除したうえで黄文王を新たな天皇に擁立し、政権を掌握しようとしていました。
謀反の発覚と逮捕
しかし、計画は事前に漏れ、757年(天平宝字元年)6月、朝廷により未然に摘発されます。密告者がいたとされ、奈良麻呂らは即座に逮捕。彼らの取り調べは厳しく、拷問も行われたと記録にあります。その結果、奈良麻呂は獄中で死亡。佐伯全成や多治比犢養らも処刑され、皇族であった黄文王と塩焼王は自害を命じられました。
橘奈良麻呂の変がもたらした影響
藤原仲麻呂政権の確立
橘奈良麻呂の変によって、最大の政敵を排除した藤原仲麻呂の地位は確固たるものとなります。彼は「恵美押勝(えみのおしかつ)」という名を与えられ、事実上の太政大臣として政権を独占します。仲麻呂は積極的な改革を行い、唐風の政治制度や法令整備を推し進めますが、後に孝謙上皇と僧・道鏡の結びつきに対抗して失脚することになります。
皇族と貴族の関係の変化
この事件は、奈良時代の皇族と有力貴族の力関係の変化を象徴しています。天武系皇族の勢力が弱まり、藤原氏をはじめとする外戚・官人系の貴族が政治の中心に進出する転換点となったとも言えます。また、橘氏という皇族系貴族が権力から完全に排除されていく過程を示す事件でもあります。
重要人物
- 橘奈良麻呂:橘諸兄の子で、有力貴族。父の失脚と藤原仲麻呂の台頭に対抗してクーデターを企てたが失敗。
- 藤原仲麻呂:藤原不比等の曾孫。孝謙天皇の信任を得て政権を掌握し、事件の勝者となる。
- 黄文王・塩焼王:天武天皇の子孫。橘奈良麻呂の支援を受けて新天皇に担がれようとしたが、計画発覚後に自害を命じられる。
- 孝謙天皇:聖武天皇の娘。仲麻呂の後ろ盾となったが、のちに上皇となり、道鏡を寵愛するようになる。
まとめ
橘奈良麻呂の変は、皇位継承と貴族政争が交錯する中で起きたクーデター未遂事件です。この事件を通じて、藤原仲麻呂が政敵を一掃し、奈良時代の政治構造が大きく変化しました。また、事件は天武系皇族の力の衰退と、藤原氏を中心とした外戚政治の定着を象徴する出来事でもあります。奈良時代の複雑な政争や、時代背景を理解する上で重要な事件です。
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