【霜月騒動とは】安達泰盛の死と北条得宗専制の転換点

鎌倉時代
霜月騒動は、1285年11月に鎌倉幕府で起きた内乱です。幕府の実権を握る得宗家の家人・平頼綱が、有力御家人の安達泰盛を急襲し、これを滅ぼしました。この事件を境に、得宗家による専制体制が完成に近づき、御家人政治の伝統は大きく崩れていくことになります。本記事では、霜月騒動についてわかりやすく解説します。
 

騒動の背景にある幕府内部の権力対立

北条貞時と幕政を支えた安達泰盛

霜月騒動当時、鎌倉幕府の第9代執権は北条貞時でした。彼は若年で執権に就任したため、政治の実務は評定衆や内管領に託されていました。その中でも中心的な存在だったのが安達泰盛です。安達泰盛は誠実な人物として知られ、先代執権・北条時宗の信頼も厚く、幕府内の人材登用や政策決定において主導的な役割を果たしていました。一方で、得宗家に仕える平頼綱は、安達の存在を警戒し、貞時への影響力を強めようと画策していました。

政策・人事をめぐる対立の深刻化

安達泰盛は、身分にとらわれず実力のある人材を登用しようとする改革志向の人物でした。この方針により、下級武士や文官からの信頼を集めましたが、保守的な家人層や既得権益にあぐらをかく者たちの反発を招くことになりました。平頼綱は、得宗家の私的家臣団を基盤とし、幕政における安達派の台頭を危惧していました。頼綱にとって安達泰盛は、自らの立場を脅かす最大の障壁であり、排除すべき存在だったのです。

財政問題と蒙古襲来後の混乱

1281年の弘安の役(蒙古襲来)を受けて、幕府の財政は大きく揺らぎました。御家人たちは恩賞を求めて不満を募らせており、幕府内部には緊張が高まっていました。こうした混乱の中、実務派であった安達泰盛の主導が続くことに、得宗家とその周辺は強い危機感を抱くようになります。

霜月騒動の勃発とその衝撃

平頼綱による突然の襲撃

1285年、平頼綱は私兵を動員し安達泰盛の館を襲撃しました。この急襲により、安達泰盛は自害に追い込まれ、一族やその関係者も相次いで命を落とすことになります。騒動は一日で鎮圧され、まさに電光石火の粛清劇でした。このとき、多くの評定衆や将軍近臣も連座し、泰盛に連なる者たちがことごとく粛清されました。鎌倉の政界は一気に再編され、安達派が担っていた政務はすべて平頼綱の管理下に置かれるようになります。

北条貞時の態度と将軍の沈黙

騒動を主導した平頼綱は、あくまでも北条貞時の意を受けて行動したとされますが、貞時本人の意思がどこまで反映されていたかについては議論があります。貞時が若年であったこと、頼綱が貞時の乳母夫であったことなどから、得宗家とその家人の暴走とも解釈される余地があるのです。将軍・久明親王は、この騒動に対して明確な介入を行わず、幕府における将軍の存在意義は一層希薄なものとなっていきました。。

騒動の影響とその後の幕府

得宗専制の完成と政治の硬直化

霜月騒動の最大の結果は得宗専制体制の完成でした。得宗家が幕府の全権を掌握し、評定衆の中にも異論を唱える者は排除されるようになります。合議制を特徴としていた幕府政治は、ここで大きく転換点を迎えることになりました。以後、幕府内の人事や政策は、得宗家とその家人が主導し、御家人たちの発言権は大きく損なわれていきます。

御家人社会の分断と不満の蓄積

有力御家人であった安達氏の粛清は、御家人全体に衝撃を与えました。幕府に対する信頼感は徐々に薄れ、得宗家に対する不満が各地でくすぶるようになります。とくに、恩賞の不足や財政難に苦しむ中小御家人は、幕府の政策に失望し、幕府の求心力は確実に低下していきました。

将軍権威のさらなる低下

鎌倉幕府における将軍の役割はもはや名目的なものとなりつつありました。霜月騒動を通じて、将軍が幕政に対して無力であることが明らかとなり、幕府の二元体制は完全に崩壊してしまいます。こうした体制の歪みは、やがて幕府そのものの瓦解へとつながっていきます。

重要人物

  • 安達泰盛:北条時宗の信任を受けて幕政を支えた有力御家人。平頼綱との対立により自害に追い込まれた。
  • 平頼綱:北条貞時の乳母夫であり、得宗家の家人。安達泰盛を粛清し、得宗政治の実権を握った。
  • 北条貞時:第9代執権。騒動を通じて得宗家の支配体制を完成させた。

まとめ

霜月騒動は、鎌倉幕府の政治構造に大きな転機をもたらした事件です。安達泰盛という優れた政治家を失い、得宗家による専制政治が幕府を支配する時代へと突入しました。

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