【永仁の徳政令とは】御家人を救えなかった幕府の経済政策

鎌倉時代
鎌倉時代後期、相次ぐ蒙古襲来によって軍事的な負担だけが増え御家人たちの経済的困窮が深刻化していました。これにより、多くの御家人が土地を手放し、質屋や高利貸しからの借金に頼る生活を強いられていました。こうした状況に対して、鎌倉幕府は1297年に「永仁の徳政令(えいにんのとくせいれい)」を出します。本記事では、永仁の徳政令の背景や内容、その影響について詳しく解説していきます。
 

永仁の徳政令の背景

経済的に疲弊した御家人たち

永仁の徳政令が出された13世紀末、御家人たちの生活は非常に厳しいものでした。元寇(文永の役・弘安の役)という二度にわたる対外戦争によって、軍役や守備の負担は激増しましたが、勝利に伴う領土的な報酬は皆無でした。戦いにかかった費用は自弁であり、生活基盤を崩される御家人が続出したのです。特に、所領を売却したり質入れした御家人が増え、結果として土地を喪失し、御家人としての本来の機能を果たせなくなる者も多くなっていました。

土地制度の変化と借金の拡大

鎌倉時代の土地制度は、御家人が将軍から与えられた土地(本領)を世襲し、軍役の代償として報酬を得る「封建的主従関係」に支えられていました。しかし、代を重ねるにつれて所領は細分化され、維持が難しくなっていきます。さらに、御家人は戦費や生活費を工面するために土地を担保に借金をするようになり、その返済のためにさらに借金を重ねるという悪循環に陥っていました。幕府は、こうした御家人たちを再び幕府の支えとするために、何らかの救済策を講じる必要に迫られていました。

執権・北条貞時の苦悩

1297年、幕府の実権を握っていたのは第9代執権・北条貞時でした。霜月騒動を経て得宗専制が確立した時期であり、貞時の政権にとって御家人の安定は政治的基盤の維持にもつながる重要な課題でした。こうした状況の中で出されたのが、「永仁の徳政令」でした。

永仁の徳政令の内容と実施

発布の内容と対象

永仁5年(1297年)に発布されたこの徳政令の主な内容は、御家人が売却した所領や質入れした土地を無償で取り戻すことを認める、いわゆる「借金帳消し令」です。御家人が債務のために手放した土地は、買い手や貸し手に対して返還を命じられ、御家人の手元に戻されました。つまり、過去20年間に取引された土地は、原則として取り消されることになったのです。この措置は、御家人に限られており、非御家人(悪党や京の町人など)には適用されませんでした。また、寺社や幕府御家人でない武士などには、むしろ不利益が及ぶ制度でもありました。

徳政令の施行による混乱

永仁の徳政令は発表当初こそ御家人の支持を集めたものの、実際にはさまざまな混乱を引き起こしました。土地の売買や貸借関係が一方的に破棄されるため、土地を合法的に取得していた新所有者や金融業者からの強い反発を受けることになりました。さらに、御家人たちの中にも、土地を買い戻せない者や、すでに生活が破綻していた者も多く、現実的な効果は限定的でした。また、今後も土地取引がいつ取り消されるかわからないという不信感が生じたことで、経済全体が停滞する結果となりました。

徳政令の評価とその後の影響

短期的効果と中長期的失敗

永仁の徳政令は御家人の救済を掲げて実施されたものの、土地の取り戻しがうまくいかなかったり、元の生活に戻れない者も多く、政策としての実効性には大きな限界がありました。また、御家人が再び困窮した際に「また徳政令が出るのではないか」と期待するようになり、自助努力を放棄する風潮も生まれました。このように、政策の依存性を生み出してしまった点でも、徳政令は失敗と評されることが多いのです。

経済と社会の信頼の低下

土地や財産の売買が法的に保障されない状況は、経済活動そのものの停滞を招きました。特に、質屋や金融業を営んでいた町人層は大打撃を受け、貨幣経済の信頼性が大きく損なわれます。これにより、幕府が御家人だけに向けた政策を取ることで、他の社会層との間に深刻な亀裂が生まれることになりました。

徳政令の定例化と幕府の衰退

永仁の徳政令は、後の南北朝時代・戦国時代における「徳政令」の先例ともなりました。社会不安が高まるたびに借金帳消しの命令が繰り返されるようになり、土地所有の安定性や法秩序は崩れていきます。鎌倉幕府にとっても、この徳政令は「場当たり的な政策」として評価され、結果的に幕府の信頼と威信を低下させる一因となっていったのです。

重要人物

  • 北条貞時:永仁の徳政令を発布した第9代執権。

まとめ

永仁の徳政令は、御家人の生活を救済しようとした幕府の苦渋の策でしたが、結果的には経済の停滞と社会の混乱を招くことになりました。土地所有の法的安定が損なわれたことで、商取引や金融活動に対する信頼が崩れ、幕府の政治的信頼も大きく揺らぐこととなります。この政策は、幕府の経済的限界と政治的柔軟性の欠如を象徴するものでもありました。永仁の徳政令は鎌倉幕府がすでに制度疲労を起こし、末期的な段階に差しかかっていることを如実に示すものでした。

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