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正中の変とは
正中の変の概要
「正中の変」は、正中元年(1324年)、後醍醐天皇が中心となって鎌倉幕府の倒幕を計画したものの、事前に発覚し未遂に終わった政変です。この事件では、天皇を中心とした一部の廷臣らが極秘に幕府転覆を企てましたが、計画は密告によって幕府に知られ、関係者の取り調べと処罰が行われました。ただし、後醍醐天皇本人は直接罰せられず事なきを得ています。
正中の変の背景
鎌倉幕府の支配と朝廷の不満
鎌倉幕府は1185年の成立以来、武士の政権として日本を支配していました。一方で、朝廷(天皇と貴族)は政治の実権を失い、形式的な存在となっていました。
朝廷内での不満と天皇親政への渇望
後醍醐天皇は、政治の実権を天皇が握る「天皇親政」を目指しており、幕府による支配に強い不満を抱いていました。特に、鎌倉幕府の北条氏が「執権」や「連署」などの役職で実権を握り続け、天皇の権威が軽視される状況に耐えられなかったと考えられています。
倒幕への伏線
後醍醐天皇は、側近らと共に密かに倒幕計画を進めており、その中には公家や僧侶、そして一部の武士も含まれていました。しかし、計画の具体性は低く、広範な組織化はまだ進んでいなかったと考えられます。
正中の変の経過
密告による計画の露見
1324年、後醍醐天皇とその側近たちが倒幕の謀議を進めていたところ、計画の一部を知った人物が幕府側に密告します。これにより、幕府は京都に設置していた監視機関「六波羅探題(ろくはらたんだい)」を通じて調査に乗り出し、関係者の逮捕と尋問を開始しました。
関係者の処罰
六波羅探題は、倒幕に関与したとされる日野資朝や日野俊基など数名を捕らえ、取り調べを行いました。代表的な処罰者は以下の通りです。ただし、後醍醐天皇本人は関与を否定し、幕府も確証が得られなかったため、直接的な処罰は行われませんでした。これが、後の本格的な反幕活動につながっていきます。
正中の変の意義と影響
後醍醐天皇の「執念」を印象づける事件
正中の変は未遂に終わった政変ではあるものの、「天皇自らが倒幕を企てた」という事実は大きな衝撃をもって受け止められました。特に、これまでの天皇は幕府との協調路線を取ることが多かった中で、後醍醐天皇は異例の存在でした。
鎌倉幕府の警戒強化と「元弘の乱」へ
この事件をきっかけに、幕府は朝廷に対する監視を強化します。また、後醍醐天皇の倒幕意志も揺らぐことはなく、約7年後の元弘の乱(1331〜1333)で再び挙兵。これが成功して鎌倉幕府は滅亡し、建武の新政が始まります。
重要人物
- 後醍醐天皇:第96代天皇。鎌倉幕府を倒し、建武の新政を実施した人物。
- 日野資朝:後醍醐天皇の側近で倒幕計画に加わったとされる。正中の変では佐渡に流され、その後の元弘の変でも再び関与。
- 日野俊基:資朝の弟。文才に優れた官人で、倒幕の文書作成などを担った。
まとめ
正中の変は、実際には倒幕が実行される前に密告によって計画が発覚し未遂に終わった事件です。しかし、それは後醍醐天皇の強い意志と幕府への不満が露呈した、倒幕の「はじまり」でもありました。この事件の失敗を経てもなお、後醍醐天皇は倒幕の意志を捨てず、元弘の乱でついに鎌倉幕府を倒すことに成功します。歴史の大きな転換点へとつながる最初の一歩が、「正中の変」でした。
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