【北条政村とは】鎌倉幕府中期を支えた名執権と連署の重鎮

鎌倉時代
北条政村(ほうじょう まさむら)は、鎌倉幕府第7代執権であり、得宗家を補佐する連署としても活躍した政治家です。幼少期から幕府の政務に関わり、幕府中期の安定を支えた調整型のリーダーとして知られます。和歌や典礼に精通し、京都の公家からも尊敬を集めた人物です。
 

少年期と元服

出生と家族関係

政村は元久2年(1205年)、畠山重忠の乱で重忠親子が討伐された同日に生まれました。父・北条義時にはすでに3人の男子がおり、政村は現正室・伊賀の方所生の長男として位置づけられました。兄たちと比較して、母の立場による序列の影響を受けつつも、北条一門の中心人物としての期待がありました。

元服と烏帽子親

建保元年(1213年)12月28日、9歳で第3代将軍・源実朝の御所で元服し、四郎政村と号します。元服の烏帽子親は三浦義村であり、祖父・北条時政と義村の一字を受けて「政村」と名乗りました。この年は和田合戦の年でもあり、義盛と同族の義村との関係を深めるため、父義時の配慮が背景にあったと考えられます。『吾妻鏡』では「相州鍾愛の若公」と記され、幼少期から期待が高かったことがわかります。

伊賀氏事件と兄・泰時の支え

父義時の死と序列

貞応3年(1224年)、20歳の政村は父・義時の急逝に直面します。葬儀の際、政村と同母弟の実泰は、側室所生の兄・有時の上位に記され、異母兄・朝時や重時の後に続きました。この序列は、現正室の子として尊重されつつも、嫡男ではなく庶子としての位置づけを示しています。

伊賀氏事件

同年、政村の母・伊賀の方が政村を執権に据えようと陰謀を企てたとされる伊賀氏事件が発生します。伊賀の方は北条政子の命により伊豆国へ流罪となりましたが、政村本人には累は及びませんでした。『吾妻鏡』には伊賀氏の謀反を明確に記した記録はなく、伊賀氏事件は政子による勢力抑制策であった可能性が指摘されています。

連署就任までの政務経験

幕府での地位

伊賀氏事件後、政村は兄・泰時を支える北条一門の一員として活動しました。3歳下の同母弟・実泰は精神の不調により天福2年(1234年)に出家しました。政村は延応元年(1239年)に評定衆となり、翌1240年には筆頭に昇進しています。

引付頭人と連署就任

建長元年(1249年)12月に引付頭人、建長8年(1256年)3月に兄・重時の出家により、52歳で連署に就任しました。同年、病により執権を退いた時頼の後を受け、時宗の中継ぎとして長時が第6代執権となりました。

執権就任と時宗の補佐

執権就任

弘長3年(1263年)に時頼が死去し、翌文永元年(1264年)7月に長時が病で出家すると、60歳の政村が第7代執権に就任しました。幼少の得宗後継者・時宗(14歳)の補佐役として、北条実時や安達泰盛ら寄合衆と共に幕政を運営しました。

幕政での役割

政村は人事や宗尊親王の京都更迭などの重要な決定に関与し、幕府中枢の安定に貢献しました。文永5年(1268年)1月、蒙古国書が到来し、元寇に備えるため、政村は執権職を18歳の時宗に譲り、64歳で連署として補佐に回りました。同時に侍所別当も兼務し、幕府の権力基盤の強化を支えました。

二月騒動と晩年

二月騒動の主導

文永9年(1272年)、朝時の遺児や異母兄・時輔をめぐる二月騒動では、政村は時宗と共に事件を主導しました。幕府秩序の維持に尽力し、「御勘当を受けた者に対し、追討使到着前に勝手に馳せ向かう者は重科に処す」と指示し、権力行使の慎重さを示しました。

出家と死去

文永10年(1273年)5月、政村は常葉上人を戒師に出家し、常盤院覚崇と号しました。69歳で死去し、和歌や典礼に精通した教養人として京都の公家からも敬愛されました。『吉続記』では「東方の遺老」と称され、亀山天皇の使者が弔慰に下向したと伝えられています。連署職は、兄・重時の息子・義政が引き継ぎました。

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