東京都荒川区にある日暮里は、JR山手線の駅名としても知られ、繊維問屋街や寺町、下町情緒あふれる街並みで親しまれています。この「日暮里(にっぽり)」という印象的な地名は、いったいどのように生まれたのでしょうか。この記事ではそんな日暮里の地名の由来について解説します!
もともとは「新堀」と呼ばれていた街
日暮里は、もともと「新堀(にいぼり)」と呼ばれていた土地でした。新堀とは、新しく開拓された土地を意味する言葉で、開発の進んだ新田や集落によく使われた地名です。一説には、太田道灌の家臣である新堀玄蕃(しんぼり げんば)がこの地に住んでいたことに由来するとも言われています。ただし、史料を見ると、すでに1448年(文安5年)の記録に「につぽり妙円」という記述があり、「新堀」以前から別の呼び名が存在していた可能性も指摘されています。
「ひぐらしの里」から「日暮里」へ
江戸時代に入ると、日暮里周辺の景色は大きく変わります。1625年、江戸城の鬼門にあたる上野の地に寛永寺が創建され、さらに幕府の政策によって神田周辺から多くの寺院が移転してきました。その結果、日暮里一帯は寺町として発展します。 18世紀中頃(寛延年間)になると、寺院の境内や周辺には桜やツツジが植えられ、日暮里は江戸屈指の行楽地となりました。 春は花見、秋は紅葉や虫の音を楽しみ、人々は「日が暮れるのも忘れてしまうほど」この地で過ごしたといいます。 こうした様子から、日暮里は次第に「ひぐらしの里」から「日暮らしの里」と呼ばれるようになり、そこに漢字をあてて「日暮里」という地名が生まれました。
江戸の名所として知られた日暮里

特に有名だったのが、日暮里・谷中の総鎮守である諏方神社からの眺めです。 この景色は多くの文人や絵師を魅了し、歌や詩に詠まれ、浮世絵にも描かれました。歌川広重の作品からも、当時の日暮里がいかに風光明媚な場所だったかがうかがえます。
明治以降の都市化と日暮里の変化
明治時代以降、日暮里は次第に都市化の道を歩みます。 大正期には住宅地の開発が進み、1923年の関東大震災後には区画整理が行われ、人口が急増しました。工場や商店が並ぶ中で、特に発展したのが繊維関連の商いです。この流れを今に伝えているのが、現在も多くの人で賑わう日暮里繊維街です。一方、西日暮里側には寺院が多く残り、谷根千エリアの一角として観光地化も進んでいます。
まとめ
日暮里の地名は、新開拓地「新堀」から始まり、江戸時代の行楽文化の中で「ひぐらしの里」と呼ばれ、やがて「日暮里」という美しい名前に定着しました。現在の下町のにぎわい、寺町の静けさ、繊維街の活気は、すべてその長い歴史の延長線上にあります。 日暮里という名前は、単なる地名ではなく、「一日中過ごしても飽きることのない里」「日が暮れるまで楽しめる場所」という、江戸の人々の実感がそのまま残された歴史ある地名と言えます。


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