【日本史】足利尊氏

室町時代

鎌倉幕府の滅亡から南北朝の分裂へと続く大きな転換期において、武家政権の新たな形を築いた人物が足利尊氏(あしかが たかうじ)です。鎌倉幕府の御家人として出発し、後醍醐天皇の新政に参加したのち、自ら武家政権を樹立するに至るまで、その行動は日本の政治構造を大きく変化させました。本記事では、そんな足利尊氏について詳しく解説します!

出生と家督相続

足利氏における出生と環境

足利尊氏は嘉元3年(1305年)、足利貞氏の次男として生まれました。母は上杉清子であり、足利氏は源氏の流れをくむ有力御家人として鎌倉幕府の中でも重要な位置にありました。出生地については下野国足利荘、丹波国上杉荘、鎌倉など複数の説がありますが、いずれも確定には至っていません。

幼少期の尊氏は嫡男ではなかったため、当初は家督を継ぐ立場にはありませんでした。しかし兄の足利高義が若くして死去したことで状況が変わります。尊氏は後継者となり、元応元年(1319年)には従五位下治部大輔に任じられました。同時に北条高時から偏諱を受けて高氏と名乗り、鎌倉幕府の有力御家人としての地位を固めていきました。

家督継承と幕府内での地位

元弘元年(1331年)、父の死去により尊氏は足利氏の当主となりました。この時点で26歳であり、源氏足利家の棟梁として幕府内での責任を担うことになります。足利氏は鎌倉幕府の中でも特に有力な家格を持ち、北条氏との婚姻関係も築いていました。

また、尊氏は赤橋守時の妹である登子を正室に迎えており、北条得宗家との結びつきを強めています。こうした関係により、幕府内での待遇も高く、若年での叙位任官も他の御家人と比較して高い水準にありました。家督継承後は、幕府の命令に従って軍事行動にも参加し、御家人としての役割を果たしていました。

鎌倉幕府打倒への転換

元弘の乱と幕府への従軍

元弘元年(1331年)、後醍醐天皇が笠置山で挙兵すると、鎌倉幕府は討伐軍を編成し、足利尊氏にも出陣が命じられました。尊氏は父の喪中であることを理由に辞退を願い出ましたが許されず、幕府軍の一員として笠置山や楠木正成の拠る下赤坂城の攻撃に参加しています。これらの戦いでは山城や河内の各地で攻城戦が行われ、幕府軍が優勢のうちに戦局が進みました。

笠置山は落城し、後醍醐天皇は捕らえられて隠岐へ配流されました。この一連の戦いののち、尊氏は従五位上に昇叙されています。一方で戦後、他の将が京都に残る中で尊氏は鎌倉へ戻っており、戦後処理の場には関与していません。この時期の尊氏は幕府の命令に従って出兵し、各地の戦闘に参加して戦果を挙げていました。

篠村での挙兵と六波羅攻略

正慶2年(1333年)、後醍醐天皇が隠岐を脱出して伯耆国船上山で再び挙兵すると、鎌倉幕府はこれを鎮圧するために足利尊氏へ出陣を命じました。尊氏は名越高家とともに京都へ向かいましたが、三河国八つ橋付近において吉良貞義ら側近に対し幕府に背く意志を示しています。その後、海老名季行を使者として船上山へ送り、後醍醐天皇から討幕の意思を伝える命を受け取りました。

同年4月29日、丹波国篠村八幡宮において兵を挙げ、幕府への反乱を明らかにします。尊氏はただちに諸国へ軍勢催促状を送り、播磨の赤松円心や近江の佐々木道誉など各地の武士を招集しました。これに応じた武士たちが次々と集まり、軍勢は急速に拡大します。尊氏の軍は京都へ進軍し、5月7日には六波羅探題を攻撃してこれを滅ぼしました。六波羅探題は京都における幕府の統治機関であり、その崩壊によって幕府の支配は大きく揺らぎます。同時期には新田義貞が鎌倉を攻撃しており、東西からの攻勢によって幕府は滅亡に至りました。

建武政権と対立

建武の新政での行動

鎌倉幕府滅亡後、足利尊氏は勲功第一とされ、後醍醐天皇から鎮守府将軍に任じられました。さらに従三位に昇進し、高氏から尊氏へと改名しています。建武政権では参議として朝廷に関与し、京都における政務に関わりました。尊氏は奉行所を設置し、天皇の命令を各地へ伝える文書を発給しています。

また、鎌倉には弟の足利直義を配置し、関東の統治にも関与しました。成良親王を上野に迎えるなど、東国支配の体制整備も進められています。さらに高師直や高師泰ら家臣が政務に関わり、武士層の統制が進められました。京都では朝廷の命令伝達を担い、鎌倉では軍事と統治に関わるなど、複数の拠点で政務が進められていました。

中先代の乱と関係悪化

建武2年(1335年)、信濃国で北条時行が挙兵し、鎌倉を占拠しました。この中先代の乱に対し、尊氏は朝廷の正式な許可を得ないまま軍勢を率いて東へ向かいます。出発後に征東将軍の号が与えられ、関東での戦闘に入ります。相模川の戦いなどで北条方の軍勢を破り、鎌倉を奪還しました。

その後、尊氏は京都へ戻らず鎌倉にとどまり、戦後処理を行いました。この際、武士に対する恩賞として所領の配分を実施し、戦功に応じた土地の分与が進められました。これらは朝廷の指示を経ずに行われたものでした。さらに上洛命令にも応じなかったため、朝廷は新田義貞に尊氏討伐を命じ、両者の関係は軍事的な対立へと進んでいきました。

建武の乱と九州転戦

京都合戦と敗走

足利尊氏は、後醍醐天皇から討伐対象とされると、新田義貞や北畠顕家の軍勢と対峙することになりました。尊氏は出陣し、箱根・竹ノ下の戦いで新田軍を破って東海道を西へ進み、京都に入っています。この時点では尊氏側が主導権を握り、市中の支配を確保しました。

しかしその後、奥州から南下した北畠顕家の軍や楠木正成らが加わることで戦況は変化します。建武3年(1336年)1月の戦いで尊氏は敗れ、京都からの撤退を余儀なくされました。さらに摂津国豊島河原の戦いでも敗北し、戦線の維持が困難となります。尊氏は兵庫から播磨国へ退き、赤松円心の進言を受けて西国へ移動しました。この過程では各地の武士と合流しながら移動し、戦力を保ったまま九州へ向かっています。

九州での再起と上洛

尊氏は播磨から長門国赤間関を経て九州へ入りました。九州では少弐頼尚や宗像氏などがこれを迎え、軍勢の再編が進められます。筑前国多々良浜の戦いでは菊池武敏らの軍と戦い、これを破ることで戦力を回復しました。この勝利により、九州における拠点が確保されます。

その後、尊氏は光厳上皇からの命を受け、西国の武士を従えて東へ進軍しました。進軍の途中では各地の武士が加わり、軍勢は段階的に拡大します。建武3年5月、湊川の戦いで新田義貞や楠木正成の軍と交戦し、これに勝利しました。この戦いののち、尊氏は京都へ進軍して再び市中を制圧しています。九州での再編から上洛までの過程では、拠点の確保と兵力の増強が段階的に進められていました。

室町幕府の成立と統治

建武式目と幕府創設の実態

1336年、足利尊氏は是円や真恵に諮問し、『建武式目』を制定しました。この法は新たな武家政権の基本方針を示すものであり、守護の統制や所領問題への対応、裁判の基準などが具体的に定められています。条文は十七条から構成され、武士の行動規範や政務のあり方が明文化されました。

同年、京都において政権の枠組みが整えられ、1338年には光明天皇から征夷大将軍に任じられています。これにより室町幕府が正式に成立しました。尊氏は守護の任命権を持ち、各地の武士を統率しました。また、戦功に応じた恩賞として所領の配分を行い、武士との結びつきを強めています。京都を拠点として政務が進められ、武家による統治体制が具体的な形をとるようになりました。

南北朝の分裂と対応

天龍寺

後醍醐天皇は京都を離れて吉野へ移り、南朝を樹立しました。これにより朝廷は南北に分裂し、京都の北朝と吉野の南朝が並立する状態となります。尊氏は京都を拠点として北朝を支え、光明天皇のもとで政務が行われました。朝廷と武家政権が結びついた体制の中で、京都の統治が進められています。

また、後醍醐天皇の死後には天龍寺の建立が進められ、さらに各国に安国寺と利生塔が設置されました。これらは戦没者の供養を目的としたもので、全国規模で寺院の建立が進められています。造営には貿易による資金調達も行われ、寺院建立と経済活動が結びついていました。こうした事業は各地の武士や寺院と関係しながら進められ、政権の基盤形成にも関わっていました。

観応の擾乱と晩年

内部対立と戦闘の経過

室町幕府の内部では、執事の高師直と、将軍の弟である足利直義との対立が深まりました。この対立は守護や武士の支持を巻き込みながら拡大し、観応の擾乱と呼ばれる内紛へと発展します。貞和5年(1349年)には直義が出家して政務から退きますが、その後も対立は収まりませんでした。

観応元年(1350年)、足利尊氏は直義の養子である直冬の討伐のため西国へ出陣します。この間に直義は京都を離れて南朝側に加わり、幕府内部の対立は南北朝の対立とも結びついていきました。各地で戦闘が行われ、尊氏や嫡子の義詮も出陣しています。その後、尊氏は師直・師泰の出家を条件として直義と和睦し、一時的に争いは収まりましたが、幕府内の勢力関係は大きく変化しました。

晩年の戦いと死去

観応の擾乱の後も、尊氏は南朝勢力や直義派の残存勢力との戦いを続けました。正平7年(1352年)には南朝方が鎌倉を攻撃し、尊氏は武蔵国へ退きますが、その後反撃して鎌倉を奪還しています。同時期、京都でも南朝勢力が攻勢を強め、北朝側の拠点は一時的に動揺しました。

尊氏は各地での戦闘に対応しながら、京都の防衛と政権の維持にあたりました。京都では南朝軍による占拠と奪還が繰り返され、畿内の戦況は不安定な状態が続きます。延文3年(1358年)、尊氏は京都二条の邸宅で死去しました。死因は背中にできた腫れ物とされています。葬儀は真如寺で行われ、その後等持院で法要が営まれました。墓所は京都の等持院と鎌倉の長寿寺に設けられています。

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