【日本史】畠山義就

室町時代

室町時代後期の日本では、将軍家や有力守護大名の内部で激しい権力争いが続いていました。その中でも、応仁の乱の発端を作った人物の一人として知られるのが畠山義就(はたけやま よしひろ)です。河内・紀伊・山城・越中の守護を務めた義就は、室町幕府の三管領家の一つである畠山氏の出身でありながら、家督相続をめぐる対立によって長年にわたり同族との争いを続けました。

義就は単なる地方武将ではなく、将軍足利義政や細川勝元、山名宗全といった当時の権力者たちと深く関わりながら、幕府政治そのものを揺るがした存在でした。特に従兄弟の畠山政長との対立は、やがて全国規模の戦乱へと発展し、応仁の乱へとつながっていきます。本記事では、そんな畠山義就について詳しく解説します!

畠山義就の出自と家督争い

庶子として生まれた義就

畠山義就は永享9年(1437年)、管領畠山持国の子として誕生しました。畠山氏は足利将軍家の一門であり、細川氏・斯波氏と並ぶ三管領家の一つに数えられていました。そのため畠山氏の家督継承は、幕府政治にも大きな影響を与える重要な問題でした。

こうした事情から、義就は本来、石清水八幡宮の社僧になる予定だったとされています。しかし12歳頃になると状況が一変し、父持国によって突然後継者として呼び戻されました。この決定により、それまで後継候補とされていた叔父持富の家系との対立が表面化します。

特に持富の子である弥三郎や政長にとって、義就の後継指名は大きな問題でした。畠山家の家臣団も義就派と弥三郎派に分裂し、家中の対立は急速に深刻化していきました。

弥三郎・政長との対立激化

文安5年(1448年)、持国は正式に義就を後継者へ定めました。この時、義就は将軍足利義政から「義」の字を与えられ、義夏と名乗っています。さらに翌年には父に代わって椀飯の役目を務めるなど、家督継承者としての立場を強めていきました。しかし、この決定に強く反発したのが弥三郎派でした。守護代の神保氏をはじめ、多くの家臣たちが弥三郎側につき、家督争いは本格的な内紛へ発展します。享徳3年(1454年)には、持国が弥三郎派の家臣を処罰する事態となり、対立はさらに激化しました。

さらに弥三郎側には、細川勝元や山名宗全、大和国人の筒井氏など有力勢力も加わります。同年8月、義夏は弥三郎派の攻撃を受けて京都から伊賀へ逃亡しました。その後、弥三郎が赦免されて京都へ戻りますが、義夏も河内から兵を率いて上洛し、再び弥三郎を追放しています。

翌享徳4年(1455年)、義夏は義就と改名し、父・持国の死後に畠山家の家督を継承しました。しかし畠山家内部の争いは収まらず、大和をめぐる戦闘や政治対立が続きます。さらに義就は、将軍義政の命令を偽って軍事行動を起こしたことで幕府の信頼を失い始めました。弥三郎が死去した後は、弟の政長が新たな対立勢力の中心となっていきます。

義就の失脚と復帰

政長への家督交替

長禄4年(1460年)、義就は大きな危機を迎えます。紀伊国で根来寺と戦った畠山軍が敗北したことで、幕府は義就への圧力を強めました。そして同年9月、将軍義政は義就に対し、家督を政長へ譲るよう命じます。義就はこの命令を拒否しましたが、幕府は政長への家督交替を強行しました。さらに義就は綸旨による討伐対象とされ、朝敵として扱われる立場になります。畠山家当主の地位を失った義就は河内へ逃れ、嶽山城に籠城しました。

嶽山城では、政長や細川軍、大和国人衆らを相手に二年以上にわたる戦いが続きます。義就は河内・大和の武士たちをまとめながら抗戦を続けましたが、次第に劣勢となっていきました。寛正4年(1463年)、成身院光宣の計略によって嶽山城は落城し、義就は紀伊へ逃亡します。その後は吉野へ移り、一時的に政治の表舞台から姿を消しました。一方で政長は、幕府から正式に畠山氏当主として認められます。翌寛正5年(1464年)には、細川勝元から管領職も譲られ、幕府内での立場を強めていきました。

山名宗全の支援による復帰

吉野へ退いた義就でしたが、寛正4年(1463年)に大赦が行われたことで赦免されました。これは将軍義政の生母・日野重子の死去に伴う恩赦によるものです。当時の幕府では、細川勝元と山名宗全の対立が深刻化していました。山名宗全は勝元に対抗するため、義就を味方へ引き入れます。また斯波義廉も義就を支持し、反細川勢力の結集が進みました。

寛正6年(1465年)、義就は挙兵して河内へ進出します。各地の城を攻略しながら勢力を回復し、大和では越智家栄や古市胤栄ら義就派国人も呼応しました。こうして政長派との戦闘が再び激しくなります。文正元年(1466年)には義就が京都へ戻り、将軍義政とも対面しました。その後、政長に対して畠山邸の明け渡しや管領辞任を要求しています。翌文正2年(1467年)1月、上御霊神社で義就派と政長派が衝突しました。この御霊合戦では、山名宗全や朝倉孝景の支援を受けた義就側が勝利しています。この戦闘によって細川方と山名方の対立は決定的となり、応仁の乱へ発展していきました。

応仁の乱での活躍

西軍の主力武将として活動

応仁の乱が始まると、義就は山名宗全率いる西軍に属し、各地で軍事行動を展開しました。もともと義就と政長の対立は御霊合戦の原因となっており、畠山家の家督争いは応仁の乱勃発に大きく関わっています。義就は京都市街戦でも積極的に戦い、内裏や東寺に陣を置きながら各地で転戦しました。応仁元年(1467年)の相国寺の戦いにも参加し、翌年には東軍の足軽大将として知られる骨皮道賢討伐にも加わっています。

当時の義就は、西軍屈指の戦上手として知られていました。河内・大和・摂津・山城を転戦しながら軍事行動を続け、とくに山城国では積極的に勢力を拡大しています。文明元年(1469年)には、東軍寄りだった乙訓郡を占拠し、勝竜寺城を拠点として西岡国人や政長派勢力と戦いました。山城西部でも支配地域を広げ、河内方面でも攻勢を続けています。一方で義就は講和成立には消極的で、政長との決着を優先しながら戦闘を継続していました。

河内・大和支配の強化

文明5年(1473年)、山名宗全と細川勝元が相次いで死去すると、東西両軍の間では講和へ向けた動きが進みます。しかし義就は、その後も政長との戦闘を続けました。文明9年(1477年)、義就は河内へ出陣し、政長派勢力への攻撃を開始します。各地の城を攻略しながら勢力を拡大し、10月には若江城から政長派守護代の遊佐長直を追放しました。

さらに大和では越智家栄や古市澄胤ら義就派が優勢となり、政長派国人衆の勢力は大きく後退します。義就は河内と大和における支配権を強化し、実効支配を進めていきました。同年11月、京都では東西両軍の講和が成立し、応仁の乱は終結します。しかし畠山家内部の争い自体は終わっておらず、幕府は引き続き政長を名目上の当主として扱っていました。そのため義就に対しては幕府から追討令が出されますが、実際には有効な討伐は行われませんでした。河内・大和では義就側の支配が継続していきます。

争奪戦と山城国一揆

細川政元との対立

応仁の乱終結後、義就は河内・大和で実効支配を維持していました。しかし文明14年(1482年)、幕府は細川政元と政長の連合軍を派遣し、義就討伐を試みます。これに対し義就は細川政元と交渉を進め、河内十七箇所と摂津欠郡を交換する条件で和睦しました。政元は撤兵しましたが、政長はそのまま河内に留まり、義就との戦闘を継続します。

義就は河内から山城南部へ進出し、政長派勢力への攻撃を強めました。文明15年(1483年)には南山城を掌握し、河内周辺でも政長方の掃討を進めています。この時期、河内と山城では長期間にわたって戦闘が続きました。義就と政長の争いは局地戦を繰り返しながら続き、周辺地域の国人や住民にも大きな負担を与えていました。幕府は義就討伐を命じていましたが、有力守護同士の対立もあり、十分な軍事行動を行うことはできませんでした。

山城国一揆の発生

文明17年(1485年)、山城国で国人一揆が発生しました。これは長年続いていた畠山両軍の争いによって、地域社会が大きな被害を受けていたことが背景にあります。山城では義就軍と政長軍が対峙を続けていましたが、戦況は膠着状態に陥っていました。戦乱によって農地荒廃や経済停滞が進み、国人衆や在地勢力の不満が高まっていきます。

こうした状況の中で、山城国人衆は両軍に対して撤退を要求しました。これが山城国一揆です。一揆勢は畠山両軍の退去を求め、地域の自治維持を優先しました。その結果、義就軍も政長軍も山城から撤退することになります。山城国一揆は、戦国時代初期における自治運動として知られています。その後も幕府から義就への追討令は続いていましたが、河内・大和では義就側の支配が維持されていました。

義就の晩年と畠山氏の継承

後継問題と基家への継承

義就は一時、能登畠山氏出身の猶子である政国へ家督を譲っていました。しかし後に長男の修羅が誕生すると、政国を廃嫡し、修羅を後継者として扱うようになります。ところが修羅は文明15年(1483年)に死去しました。そのため義就の後継問題は再び不安定になります。

義就には次男の基家(義豊)もおり、義就死後には修羅の子と基家との間で後継争いが起きたとされています。最終的には基家が家督を継承し、河内・大和支配を引き継ぎました。一方、政長側も完全には衰退していませんでした。政長は紀伊や越中を基盤として勢力を維持し、畠山氏当主の地位をめぐる争いを続けています。畠山氏内部の対立は、義就の死後も継続していきました。

延徳2年に死去

延徳2年12月12日(1491年1月21日)、畠山義就は死去しました。享年54でした。義就は生涯を通して、政長との抗争を続けながら各地で軍事行動を展開しました。河内・大和では強い影響力を持ち、幕府から追討対象とされながらも実効支配を維持しています。

また義就と政長の家督争いは、細川氏と山名氏の対立とも結びつき、応仁の乱発生の大きな要因となりました。応仁の乱終結後も、義就と政長の対立は河内・山城を中心に継続します。幕府の統制力が低下する中で、守護大名による実力支配や地域抗争が広がっていきました。義就の死後も畠山氏内部の争いは続き、戦国時代初期の畿内情勢へ影響を与えていきます。

コメント

タイトルとURLをコピーしました