南北朝時代において、北陸を中心に活動した有力武将の一人が足利高経(あしかが たかつね)です。足利氏の一門である尾張守家の当主として生まれ、鎌倉幕府の御家人から建武政権、さらに室町幕府へと続く大きな政治変動の中で軍事・政治の両面に関与しました。越前守護として北陸の戦線を担い、南朝方の有力武将であった新田義貞を討ち取るなど、戦場において重要な役割を果たしています。本記事では、そんな足利高経について詳しく解説します!
Contents
鎌倉御家人と建武政権
出生と足利尾張守家
足利高経は嘉元3年(1305年)、足利宗氏の嫡男として誕生しました。宗氏の家系は足利本家から分かれた尾張守家にあたり、当時の史料では「足利尾張守家」として扱われています。この家は単なる庶流ではなく、本家と並ぶ別家として位置づけられており、当主は足利姓を用いて活動していました。
若年期の具体的な動向は詳しく伝わっていませんが、元亨3年(1323年)の供養に参加していることから、この頃にはすでに家督を継いでいた可能性が指摘されています。鎌倉幕府の御家人として活動しつつ、足利一門の中でも高い家格を背景に一定の発言力を持つ立場にありました。こうした立場のもとで、高経はやがて幕府崩壊という大きな転換期に直面することになります。
倒幕への参加と守護任命
元弘3年(1333年)、足利尊氏が後醍醐天皇の綸旨を受けて挙兵すると、高経もこれに従って鎌倉幕府に対して兵を挙げました。六波羅探題攻めに参加し、倒幕戦争の一翼を担います。幕府滅亡後、建武政権が成立すると、高経は越前守護に任じられ、北陸における支配を担う立場となりました。
建武元年(1334年)には紀伊国で起こった反乱の鎮圧に出動し、軍事行動に従事しています。その後、尊氏が建武政権から離反すると、高経はこれに従って再び戦場に立つことになります。この時期の高経は、政権の変化に応じて所属を変えながら、武力をもって各地の戦乱に関与していきました。越前守護としての地位を背景に、北陸方面での軍事活動が本格化していくことになります。
新田一族との戦いと北陸戦線
金ヶ崎城攻防と北陸での戦闘
足利尊氏が武家政権を樹立し南北朝の対立が始まると、高経は北朝方として越前を拠点に南朝勢と戦いました。新田義貞が尊良親王・恒良親王を奉じて越前へ入ると、戦局は急速に緊張します。延元2年(1337年)、高経は高師泰とともに金ヶ崎城を攻撃し、激戦の末に城を落としました。この戦いでは尊良親王と義顕が自害し、恒良親王が捕らえられています。
しかし新田義貞の反撃も強く、高経は一時的に拠点を失うなど苦戦を強いられました。その後、平泉寺の宗徒を取り込みながら戦線を維持し、越前国内での戦闘を継続します。戦闘は城郭戦と野戦を繰り返しながら長期化し、北陸地域は南朝と北朝の主戦場の一つとなっていきました。高経は守護として軍勢を指揮し、各地の勢力と連携しながら戦いを続けていきます。
藤島の戦いと新田義貞討伐
延元3年(1338年)閏7月、越前藤島の灯明寺畷で戦闘が行われました。この戦いにおいて、高経はついに新田義貞を討ち取ります。義貞は南朝方の中心的武将であり、その戦死は戦局に大きな影響を与えました。戦闘は局地的な衝突の中で発生し、戦場の混乱の中で義貞が討たれたとされています。
その後も戦闘は続き、義貞の弟である脇屋義助が北陸戦線に現れます。義助の攻勢により高経は一時加賀へ退くなど後退を余儀なくされましたが、再び反攻に転じて勢力を回復します。暦応年間に入ると戦局は徐々に北朝側に傾き、最終的に越前は高経の支配下に置かれました。この一連の戦闘の中で、高経は北陸方面の軍事指揮を担い続けました。
観応の擾乱と離反・帰参
直義方への参加と戦線での行動
観応の擾乱が勃発すると、足利高経は足利直義の陣営に属し、越前を中心に軍事行動を展開しました。直義と足利尊氏の対立は幕府内部の主導権争いとして全国に波及しており、高経は守護として動員できる兵力を背景に、北陸戦線の維持と各地の武士への指示に関わります。この時期、南朝勢力も北陸で活動しており、戦況は単純な二者対立ではなく複雑に入り組んでいました。
直義が失脚すると高経は尊氏方へ帰順し、その後の戦局の変化に応じて再び直義方に戻るなど、立場を変えながら戦闘に参加します。直義が南朝へ降った後の戦局では京都周辺でも衝突が続き、高経は将軍足利義詮を支える軍勢とともに行動しています。さらに直義の死後には再び尊氏方へ復帰し、短期間のうちに複数回の帰属変更を行いながら、各戦線で軍事活動を続けました。
直冬との連携と京都進出
正平10年(1355年)、高経は足利直冬に呼応し、越前から軍勢を率いて上洛しました。京都では幕府側の軍勢と衝突し市中で戦闘が行われます。高経の軍は洛中に入り、屋敷や寺社の周辺で戦いが続き、直冬方は一時的に京都の一部を押さえる状況となりました。この時、高経は自ら兵を率いて京都での戦闘に関与し、直冬勢とともに幕府側と対峙します。
しかし翌年になると、直冬方の勢力は各地で敗北し、京都での維持が困難となります。高経は軍勢をまとめて京都を離れ、北陸へ退きました。その後は再び幕府側に帰順し、越前へ戻って守護としての立場に復帰します。京都への進出と撤退の過程では、長距離の移動と連戦が続き、各地で軍勢の再編が行われました。高経はその都度、兵を率いて戦線を移動しながら戦闘に関わり続けました。
高経政権と幕府主導
義詮補佐と幕政運営への関与
正平13年(1358年)、足利尊氏の死去後、高経は出家して道朝と号し、将軍足利義詮のもとで政務に関与しました。当時の幕府では執事細川清氏が失脚し、政務を担う体制が揺らいでいました。その中で高経は将軍に近い立場で政務に関わり、決定過程に参加する位置に入りました。
高経は四男の義将を執事職に据え、幕府の実務を担当させます。さらに五男義種を小侍所頭人とし、孫の義高を引付衆に任じるなど、一族を幕府中枢に配置しました。また、将軍邸の造営費を諸大名に課し、従来よりも高い割合で武家役を徴収する措置が取られます。これにより各地の守護や大名に対して負担が課され、幕府の財政に関わる命令が実行されていきました。
諸大名の帰順と幕府内部の対立
この時期、幕府は各地の有力大名を取り込む動きを進めていました。防長の大名である大内弘世や、山陰に勢力を持つ山名時氏が幕府に従い、軍事面での協力関係が形成されていきます。これにより、西国方面での勢力関係に変化が生じ、幕府の影響力が各地に及ぶ形となりました。高経はこうした状況の中で、将軍の命令に基づく対応に関与し、諸勢力との関係の中で行動しました。
一方で幕府内部では、佐々木道誉との対立が表面化します。道誉は有力守護として幕政に関与し、高経と人事や政務運営を巡って対立しました。義将の執事任命をめぐる経緯もあり、両者の関係は悪化していきます。こうした対立は将軍の裁定にも影響し、やがて高経に対して領国へ戻る命令が出される流れへとつながっていきました。
失脚と越前への退去
貞治の変と都落ち
正平21年(1366年)8月、足利高経は将軍足利義詮の命によって京都からの退去を命じられます。この命令は、幕府内での主導権をめぐる対立の中で発せられたもので、高経はそれまで関与していた政務の場から外される形となりました。高経は一門の人事配置や財政政策に深く関わっており、幕政の中核に位置していましたが、この時点でその立場を失うことになります。
京都では佐々木道誉ら有力守護が影響力を持ち、高経との対立関係が続いていました。こうした状況の中で義詮の裁定が下され、高経は抵抗することなくこれに従い、都を離れることになります。高経は京都を出発し、越前へと向かいました。長く政務の中心にあった人物が都を去ることで、幕府中枢の人事と政務の担い手は大きく入れ替わることになり、新たな体制のもとで幕政が運営されていくことになります。
杣山城での最期
越前に戻った足利高経は、これまで守護として統治してきた地盤を頼りに行動し、杣山城を拠点として軍勢を集めました。杣山城は越前南部の山間に位置し、防御に適した要害であり、高経はこの城に立てこもって幕府方の動きに対抗します。幕府は高経を追討するため軍を派遣し、越前各地で戦闘が続きましたが、高経は城を中心に抗戦を続けました。
しかし戦況は次第に不利となり、周辺の支配も安定しない中で籠城は長期化していきます。補給や兵力の面でも厳しい状況に置かれ、高経は杣山城での防戦を続けながら事態の打開を図りましたが、最終的には状況を覆すには至りませんでした。貞治6年(1367年)、高経は杣山城において没します。長年にわたり北陸で勢力を築き、幕府政務にも深く関わった高経は、越前の地でその生涯を終えることとなりました。

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