室町幕府中期から後期にかけて活躍した足利義視(あしかが よしみ)は、将軍家の一族として生まれながら、一度は出家し、のちに還俗して将軍後継者となった特異な経歴を持つ人物です。兄である足利義政との関係、そして嫡子義尚の誕生によって揺らぐ立場は、幕府内の政治的緊張を高める要因となりました。
さらに、応仁の乱においては東軍の総大将として行動しながら、のちに西軍へと移り、事実上の将軍として扱われるに至ります。その後も亡命や復帰、和解を経て、最終的には嫡子を将軍に就けることで幕政の中心に関与しました。本記事では、そんな足利義視について詳しく解説します!
Contents
誕生と出家
将軍家の一員としての誕生と養育
永享11年(1439年)閏1月18日、足利義視は第6代将軍である足利義教の十男として誕生しました。出生地は細川持春の邸宅であり、母は正親町三条家に仕える女房である小宰相局でした。誕生後まもなく、母方の縁により正親町三条実雅の猶子となり、今出川亭で養育されることになります。
将軍家の子でありながら、嫡流ではない立場にあった義視は、早い段階から将軍継承とは異なる進路を歩むことになります。幼少期は公家社会の中で育てられ、武家としての実務よりも、教養や儀礼を重視する環境に置かれていました。このような環境は、後の政治的立場や人脈形成にも影響を与えることになります。
出家と義尋としての生活
嘉吉3年(1443年)、兄の足利義政が将軍職を継承した年に、義視は他の兄弟と同様に出家しました。そして、東山の天台宗寺院である浄土寺の門跡となり、「義尋」と名乗ることになります。
義尋はその後、約20年以上にわたり僧侶として生活を送りましたが、この期間の詳細な活動は史料上ほとんど確認されていません。ただし、門跡として寺院の運営や宗教儀礼に関わっていたと考えられます。このため、武家として軍事や政務に直接関与する経験を持たないまま成長しており、還俗後に幕府の政治に関与する際には、周囲の大名や側近の補佐を受けながら活動していく状況にありました。
還俗と将軍後継者
還俗の経緯と義視への改名
寛正5年(1464年)、天台宗の門跡であった義尋は、兄で第8代将軍の足利義政からの要請を受けて還俗し、「足利義視」と名乗りました。義政はこれまで男子に恵まれず、将軍後継者を確保する必要があったため、在京していた弟である義尋に白羽の矢が立てられました。兄弟のうち、関東に下向していた足利政知は後継者として扱いにくく、結果として義尋が選ばれることになります。
還俗にあたって義視は当初これを固辞しましたが、義政が「将来男子が生まれた場合には出家させる」と誓紙を出し、さらに有力大名である細川勝元がその証人となったことで、最終的に受け入れました。還俗後の12月には従五位下・左馬頭に叙任され、この官位が将軍後継者に与えられるものであったことから、義視の地位は制度的にも明確に位置付けられました。
将軍継嗣としての待遇と義尚誕生
還俗後の義視は、将軍後継者としての扱いを受け、朝廷儀礼や幕府行事に参加するようになります。寛正6年(1465年)には御判始や御弓・御馬始といった武家儀礼を行い、さらに参議・左近衛中将に補任されるなど、昇進も順調に進みました。また、将軍御台所である日野富子の妹を正室に迎えることで、将軍家と日野家との結びつきも強められました。
しかし同年11月、足利義政と日野富子の間に男子である足利義尚が誕生すると状況が変化します。義尚は政所頭人の伊勢貞親のもとで養育され、将軍継嗣に準じる待遇を受けました。これにより、義視が将軍となる前提で交わされていた約束は実質的に変更され、義視は後継者としての立場を維持しつつも、義尚の存在を前提とした政治環境の中で行動することになります。
文正の政変と政治関与
伊勢貞親の讒言と義視の危機
足利義尚の誕生後、幕府内では将軍後継を巡る動きが活発化し、政所頭人の伊勢貞親は義尚への継承を進めようとしました。一方、義視は山名宗全らと結びつき、これに対抗する動きを見せていました。こうした中、文正元年(1466年)9月、貞親は「義視が謀反を企てている」と将軍足利義政に訴え、義視の処刑を進言します。
義政はこれを受けて義視の誅殺を決定しましたが、義視は事前に情報を得て夜間に逃亡し、細川勝元の屋敷へ入りました。さらに山名宗全のもとにも赴き、自身の無実を訴えています。この一連の動きに対して大名たちは貞親に強く反発し、将軍に対して貞親の処罰を求めました。その結果、貞親は失脚し、近江へ逃亡することになります。この事件は文正の政変と呼ばれています。
合議体制の成立と義視の政務関与
文正の政変後、将軍義政による親政は動揺し、幕府の政治運営は有力大名による合議体制へと移行しました。この体制の中で、細川勝元と山名宗全が中心となり、政務が進められるようになります。義視はこの時期、勝元の邸宅を拠点として奉行衆を使役し、政務の処理に関与しました。
また、畠山氏の家督争いにおいて、義視は畠山義就を支持する立場を取っており、この対応は勝元の立場と対立するものでした。こうした動きは幕府内部の対立をさらに複雑にし、のちに細川氏と山名氏が分裂していく背景の一つとなります。この時期の政務関与は長期には続かず、やがて義政が再び政務の主導権を握ることになりますが、義視は大名間の調整や意思決定に関わる立場にありました。
応仁の乱と東軍総大将
畠山氏の家督争いと戦乱の発生
文正2年(1467年)正月、畠山氏の家督を巡る争いが激化し、畠山政長と畠山義就の対立が武力衝突へと発展しました。この争いには、細川勝元と山名宗全という有力守護大名がそれぞれの陣営に分かれて関与しており、京都を中心に大規模な戦闘が始まりました。
この状況の中で、足利義視は将軍である兄足利義政とともに畠山義就を支持する立場を取りましたが、やがて細川勝元らと結びつくことで東軍側の中心人物となります。同年6月には、幕府の象徴である武家御旗が義視に下され、義視が東軍の総大将として位置付けられました。これにより、戦乱は将軍家を軸とした正統性争いの様相を帯び、京都全域で戦闘が拡大していきました。
東軍総大将としての軍事行動
東軍の総大将となった義視は、戦闘の指揮だけでなく、軍内の統制維持にも関与しました。義視は室町第を拠点とし、西軍に通じた疑いのある者の排除を進め、山名氏や一色氏に関係する人物の追放を命じました。また、奉行衆の中で内通の疑いが持たれた者に対しては処罰を行い、軍の統制を図りました。
同時に、義視は西軍側の諸将に対して下国命令を出すなど、軍事的な指示も行っており、単なる象徴ではなく実際の指揮権を担っていました。しかし、戦局は朝倉孝景ら西軍の有力武将の活躍によって一進一退の状況が続き、京都での戦闘は長期化していきました。こうした中で、義視は戦闘の指揮と幕府の意思伝達の両面で役割を果たしていました。
出奔と西軍での活動
京都脱出と伊勢への移動
応仁元年(1467年)8月、足利義視は京都を離れ、伊勢国へ向かいました。この時期、東軍と西軍の戦闘は激化しており、さらに大内政弘率いる軍勢が上洛したことで戦局は不安定な状態にありました。義視は夜間に京都を脱出し、北畠氏の一族である木造教親の支援を受けて移動しました。
その後、義視は伊勢国司である北畠教具のもとに身を寄せ、多芸御所に迎えられました。義視の離脱は東軍に大きな影響を与え、総大将を欠いたことで軍の統率にも動揺が生じました。一方で、義視は伊勢において一定期間滞在し、情勢を見極めながら今後の行動を模索する状況に置かれていました。
西軍への合流と西幕府の成立
義視が比叡山へ移ったのち、山名宗全からの誘いを受けて西軍への参加を決断しました。義視は斯波義廉の屋敷に入り、西軍諸将に迎えられます。西軍はそれまで将軍を擁していなかったため、義視を盟主として推戴し、「相公」と呼んで将軍に準じる存在として扱いました。
これにより、西軍は将軍(義視)と管領(義廉)を備えた体制を整え、幕府の形式を模倣した政権が成立しました。この体制は一般に「西幕府」と呼ばれています。義視は西軍において、官職の推挙や所領安堵などの命令を発給し、政治的な決定にも関与しました。一方で、京都の幕府側では義視に対して官位剥奪や追討命令が出され、義視は朝敵として扱われる状況となりました。
晩年と最期
美濃での生活と義政との和解
応仁の乱終結後、足利義視は嫡子の足利義稙とともに美濃へ下向し、土岐氏の領国で生活を送りました。義視は当初、革手城に近い茜部の承隆寺を居所としましたが、実際には守護代である斎藤妙椿の庇護を強く受けていました。妙椿は美濃国内で大きな権勢を持ち、義視父子の保護を通じて自身の権威を高めようとしていました。
文明10年(1478年)には妙椿の仲介により、義視と将軍足利義政との和解が成立しました。これにより義視は赦免され、幕府との関係が回復します。義視のもとには伊勢氏や奉公衆の一部も集まり、地方にありながらも一定の政治的基盤を維持する状況が続きました。その後、妙椿の死去後も後継者である妙純によって保護は継続されました。
将軍父としての復権と死去
延徳2年(1490年)、兄である足利義政が死去すると、義視は正室の日野富子と協調し、嫡子の足利義稙を将軍に就任させました。これにより義視は将軍の父として「大御所」の立場に立ち、幕政に関与するようになります。義視は朝廷への献上や寺社参詣などを行いながら、政務にも一定の影響力を持ち続けました。
しかし同年10月、義視は病を患い、三条御所で療養することになります。義稙は父の回復を願い、御所内の生活音を厳しく制限するなど看病にあたりましたが、病状は改善せず、延徳3年(1491年)1月7日、義視は死去しました。死後、義視には太政大臣が追贈され、将軍に就任していない人物としては異例の待遇が与えられました。


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