室町時代の関東政治において大きな転換点をもたらした人物が、鎌倉公方であった足利持氏(あしかが もちうじ)です。彼は若年で権力を継承し、関東管領や幕府と複雑な関係を築きながら統治を進めましたが、その政治姿勢はやがて将軍との深刻な対立へと発展し、最終的には戦乱とともにその生涯を閉じました。本記事では、そんな足利持氏について詳しく解説します!
Contents
誕生から鎌倉公方就任まで
足利氏一門における出生と幼少期
足利持氏は、1398年に第3代鎌倉公方である足利満兼の子として誕生しました。鎌倉公方は室町幕府の将軍に代わって関東を統治する役職であり、京都とは別に政治拠点を持つ存在でした。持氏はその嫡子として生まれ、幼名を幸王丸と称し、将来的に家督を継ぐ立場にありました。
鎌倉府は関東のみならず奥州にも影響力を及ぼしており、その統治者には軍事と政治の双方に対応する能力が求められていました。こうした環境のもとで、持氏は鎌倉公方家の後継者として育てられていきました。父満兼のもとで過ごした時期は長くはありませんでしたが、家督継承を前提とした立場は早くから確立されていました。
家督継承と謀反騒動
応永16年(1409年)、父である足利満兼の死去により持氏は鎌倉公方に就任しました。翌応永17年(1410年)には、叔父である足利満隆が謀反を企てているとの風説が流れ、持氏は関東管領であった上杉憲定の屋敷へ避難する事態が発生します。
この騒動は、持氏の異母弟である乙若丸を満隆の養子とすることで収められました。また、この出来事は反憲定勢力が満隆と結びついたことにより発生したものであり、その影響を受けて憲定は翌年に関東管領を辞任しています。さらに同年12月、持氏は元服し、室町幕府将軍の足利義持から偏諱を受けて正式に「持氏」と名乗るようになりました。
奥州政策と内部対立
伊達持宗の反乱と鎌倉府の対応
応永20年(1413年)、奥州において伊達持宗が、篠川公方の足利満直および稲村公方の足利満貞の支配に従わず、これに対抗する形で挙兵しました。奥州は鎌倉府の管轄に含まれていましたが、各地の国人領主が独自の勢力を維持しており、中央の命令が常に直接及ぶ状況ではありませんでした。そのため、鎌倉府は現地勢力との関係を通じて支配を維持する必要がありました。
持氏はこの動きに対して、奥州各地の国人に対して召集を命じ、軍勢を編成させました。これにより鎌倉府の軍事行動が開始され、伊達持宗側の動きは制圧されることになります。この対応の中で、篠川公方および稲村公方のもとでの統治体制は継続され、鎌倉府による奥州への指揮系統が維持されました。
上杉禅秀との対立の進行
関東管領であった上杉氏憲は、持氏の補佐役として政務を担っていましたが、次第に両者の関係は変化していきました。氏憲は持氏の叔父である足利満隆や、弟である持仲と結びついており、鎌倉府内部には複数の勢力が存在していました。こうした状況の中で、政務運営をめぐる意思決定は一枚岩ではなく、各勢力の関係によって左右される状態が続いていました。
応永22年(1415年)、氏憲は関東管領を辞任し、その後任には上杉憲基が任じられましたが、氏憲は政治の場から完全に離れたわけではありませんでした。翌応永23年(1416年)、氏憲と満隆は挙兵し、鎌倉において軍事行動が開始されます。この際、持氏と憲基は鎌倉を離れて駿河へ移動し、鎌倉府の中枢が一時的に移動する状況となりました。
上杉禅秀の乱と復帰
幕府の介入と戦闘の経過
応永23年(1416年)に発生した上杉禅秀の乱に対して、室町幕府は鎮圧を目的として軍勢を派遣しました。越後守護の上杉房方や駿河守護の今川範政が出兵し、各地で戦闘が行われました。これらの軍勢は、幕府の命令に基づいて関東へ進軍し、氏憲・満隆の勢力と対峙しました。
戦闘は関東各地で展開され、次第に氏憲側の勢力は劣勢となっていきます。最終的に氏憲、満隆、持仲はそれぞれ自害し、反乱は終息しました。この過程で幕府は関東の軍事行動に直接関与し、守護大名による軍事力が動員されました。反乱終結後、持氏は鎌倉へ戻り、再び鎌倉府の拠点において政務を行うことになります。
関東管領体制の再編と施行状の運用
応永25年(1418年)、関東管領であった上杉憲基が急死し、その後任として憲定の子である上杉憲実が任じられましたが、当時の憲実は幼少でした。このため、鎌倉公方と関東管領の双方が若年という体制が成立しました。
通常、関東管領は公方の命令を文書化し、施行状として発給する役割を担っていましたが、憲実が幼少であったため、その業務は持氏が代行する形となりました。持氏は憲実の代理として施行状を発給し、関東各地の武士に対して命令を伝達しました。この状態は応永31年(1424年)頃まで継続し、文書行政の実務が公方自身によって処理される状況が続きました。
将軍との対立
応永の乱と幕府勢力の排除
応永30年(1423年)、京都扶持衆であった小栗満重が室町幕府の命令を受けて反乱を企てたとされ、これに対して持氏は軍勢を動員して攻撃を行いました。小栗満重は討たれ、その勢力は消滅しました。さらに持氏は、同じく幕府に近い立場にあった宇都宮持綱や桃井宣義に対しても軍事行動を行い、これらの勢力を排除しました。
これらの動きに対して、将軍である足利義持は持氏討伐を検討しましたが、持氏が謝罪の意思を示したことで、実際の出兵は行われませんでした。しかし、幕府は関東御扶持衆を通じて関東への影響力を維持しようとし、持氏はそれに対抗する形で行動を続けました。
将軍継承問題と関係の変化
応永32年(1425年)、第5代将軍であった足利義量が死去し、その後正長元年(1428年)には前将軍の足利義持も死去したことで、将軍職が空位となりました。この際、持氏は足利一族としての立場から将軍職の継承に関心を示しました。
しかし、管領の畠山満家や満済らの協議によって、将軍はくじ引きによって決定されることとなり、その結果、天台座主であった義円が還俗して足利義教として将軍に就任しました。持氏はこの決定に際し、将軍就任の祝賀使を送らず、改元後も正長の元号を使用し続けました。また、鎌倉五山の住職についても独自に任命を行いました。
関東管領との決裂
上杉憲実との関係悪化と政務体制の変化
関東管領であった上杉憲実は、足利持氏と将軍足利義教との関係を調整するため、たびたび両者の間に立って対応を行いましたが、持氏はこれに応じませんでした。その後、持氏は上杉憲直や一色直兼、簗田満助らを側近として登用し、政務の中心に据えました。
この過程で、憲実が持氏によって討たれるとの情報が広まり、関東府内部に緊張が生じました。永享9年(1437年)、憲実は施行状の発給を停止し、その後関東管領を辞任して上野国へ移動しました。これにより関東管領による文書発給は停止され、従来の統治手続きに変化が生じました。
幕府内部の変化と対関東政策
室町幕府内部では、将軍である足利義教の政治運営に影響を与えていた有力者が相次いで姿を消していきました。まず、義教と対立関係にあった管領の斯波義淳が永享4年(1432年)に辞任しました。さらに、関東との関係調整に関わっていた管領の畠山満家が永享5年(1433年)に死去し、続いて三宝院門跡であった満済も永享7年(1435年)に死去しました。
これらの人物は、将軍と関東の間において意思の調整に関与していた存在でしたが、その死去や辞任により幕府内の構成は変化しました。その後、義教のもとで幕府の命令は守護大名を通じて各地へ伝達され、関東への対応についても同様に命令が出される体制がとられました。こうした状況の中で、篠川公方の足利満直や駿河守護の今川範忠らに対して出兵が命じられ、関東への軍事行動が準備されていきました。
永享の乱と最期
義久元服と命名の経緯

永享10年(1438年)6月、足利持氏の嫡子である賢王丸が元服し、「義久」と改名しました。鎌倉公方の子が元服する際には、通常は室町幕府将軍から一字を拝領する慣例がありましたが、このときは将軍である足利義教からの偏諱は受けられませんでした。
元服の儀式は鶴岡八幡宮において行われ、源義家の先例を参照して進められたと記録されています。また、持氏は義久に対して「八幡太郎」の通称を称させました。命名については関東管領であった上杉憲実が異議を唱えましたが、その意見は採用されませんでした。
関東管領の離反と戦闘の開始
義久の元服後、関東管領の上杉憲実は鎌倉を離れ、上野国へ移動しました。これに対して持氏は、一色直兼に命じて軍勢を派遣し、自らも武蔵国府中の高安寺へ出陣しました。この動きにより、関東内部での武力衝突が開始されました。
将軍である足利義教は憲実の支援を決定し、篠川公方の足利満直や駿河守護の今川範忠らに出兵を命じました。さらに朝廷に働きかけて持氏追討の綸旨を発給させ、持氏は朝敵とされました。これらの軍事行動により発生した一連の戦闘は「永享の乱」と呼ばれています。
戦局の推移と持氏の最期
幕府側はさらに、上杉禅秀の子である上杉持房や上杉教朝らを含む軍勢を関東へ派遣し、各地で戦闘が行われました。持氏の軍勢は次第に敗退し、相模国方面へ後退しました。その過程で鎌倉の守備を担っていた三浦時高らが離反しました。
持氏は鎌倉へ戻る途中で長尾忠政と接触し、交渉の仲介を依頼しましたが、その後出家して称名寺に入り、永安寺へ移されて幽閉されました。永享11年(1439年)2月、憲実の軍勢が永安寺を攻撃し、持氏は自害しました。この際、義久も同時期に命を落とすこととなります。


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