室町幕府第3代将軍足利義満の子として生まれた足利義嗣(あしかが よしつぐ)は、将軍後継とは異なる立場に置かれながらも、極めて高い官位と待遇を受けた人物です。その異例の昇進は朝廷と幕府の関係を反映するものであり、やがて兄である足利義持との対立へとつながっていきます。本記事では、そんな足利義嗣について詳しく解説します!
Contents
出生と出家予定の幼少期
庶子としての誕生と寺院への入室
足利義嗣は応永元年(1394年)、足利義満と側室春日局との間に生まれ、幼名を鶴若丸といいました。同年には兄の義持が将軍職に就いており、義嗣は嫡子ではなく庶子として扱われていました。このため、生まれた当初から将軍後継になる立場ではなく、同年生まれの弟とともに寺院へ入ることが定められ、梶井門跡に入室します。これは将軍家の庶子に見られる処遇であり、政治的後継争いを避けるための措置でもありました。
しかし、この段階ではあくまで形式的な処置であり、後に義満の方針変更によって義嗣の立場は大きく変化します。幼少期は寺院に所属しながらも、後に公的な場へ登場する準備が進められていきました。
義満の意向による立場の転換
義嗣の境遇が大きく変わるのは応永15年(1408年)です。この年、義満は鶴若丸を伴って参内し、まだ元服していないにもかかわらず宮廷に出仕させました。これは通常の武家の子弟には見られない異例の扱いであり、朝廷において特別な存在として位置づけようとする動きでした。
さらに同年3月、義嗣は従五位下に叙せられ、短期間のうちに正五位下左馬頭、従四位下、左近衛中将と急速に昇進します。左馬頭や近衛中将は本来、将軍クラスに限られる官職であり、この昇進は通常の序列を大きく逸脱するものでした。この一連の処置によって、義嗣は単なる庶子ではなく、朝廷の中枢に関わる存在として扱われるようになります。
若宮としての異例の昇進
元服と公卿昇進
応永15年(1408年)4月、義嗣は内裏清涼殿で元服を行いました。この元服では、加冠役を内大臣二条満基、理髪役を烏丸豊光が務めており、将軍家の子弟に対して通常行われる形式とは異なり、公家主導の儀礼として執り行われています。元服の場所も紫宸殿ではなく清涼殿であり、これは親王や摂関家に近い形式でした。
元服当日の除目で義嗣は従三位参議に任じられ、朝廷の議政に参加する資格を得ます。さらにこれ以前の同年3月には従五位下から正五位下左馬頭、従四位下、左近衛中将へと短期間で昇進しており、いずれも本来は将軍や鎌倉公方など限られた者に与えられる官職でした。こうした任官は、すべて同年中に連続して行われています。
北山行幸と宮廷儀礼での活動
応永15年(1408年)3月、後小松天皇は足利義満の北山第へ行幸しました。この行幸は複数日にわたって実施され、院政期以来の格式を備えた大規模な宮廷儀礼として行われています。義嗣はこの行幸において随行し、儀礼の場に参加しました。行幸期間中、義嗣は笙の演奏を担当しており、これは雅楽の演奏者として天皇の前で実際に奏楽を行う役割です。
また、同じ行幸の中で義嗣は天皇から盃を賜っており、これは饗宴の場において直接授与される形式で行われました。さらに、この行幸に関連して義嗣の官位は段階的に引き上げられており、3月4日に従五位下、同月24日に正五位下左馬頭、28日に従四位下、翌29日に左近衛中将へと任官されています。これらはいずれも行幸の進行に合わせて実施されたものであり、儀礼と官位授与が同時に進められていたことが確認できます。
義満死後の立場と動向
新御所と居所の変化
応永15年(1408年)5月、足利義満が死去すると、義嗣の生活環境と政治的な立ち位置が変化しました。6月には兄の足利義持が北山第へ移り、将軍としての拠点を掌握しますが、義嗣は北山第から離れ、母である春日局の邸へ移りました。
この時期、義嗣は「新御所」と呼ばれており、これは将軍とは別に居所を持つ存在としての呼称です。義持と同一の場所で政務を行うのではなく、別の邸宅を拠点としながら生活し、必要に応じて参内や儀礼に参加する形が取られました。北山第から三条坊門周辺へと生活拠点が移ることで、義嗣の行動範囲や接触する人々も変化し、京都市中での独立した生活が始まります。
義嗣は政務の中心に直接関与するのではなく、公家的な儀礼や朝廷との関係に関わる場面で活動しています。義満の死去によって主導者を失った後も、義嗣は一定の地位を維持しつつ、居所と行動の面で将軍義持とは分離された形で存在していました。
継続する昇進と朝廷儀礼への関与
義満の死後も義嗣の官位昇進は継続しており、応永16年(1409年)正月には正三位に昇進し、同年7月には権中納言に任じられています。さらに応永18年(1411年)には権大納言、応永19年(1412年)には院司、応永21年(1414年)には正二位に達しています。これらの昇進は、朝廷内の官職体系に基づいて段階的に行われています。
これと並行して、義嗣は参内や御成を行っており、義持とともに内裏へ出向く記録が複数確認できます。参内では、朝廷の儀礼に参加し、天皇の前での儀式や饗宴に同席する形で活動しています。また、御成では将軍とともに貴族や寺社を訪れ、その場の儀礼に参加しています。
さらに、三条坊門に屋敷が設けられたことで、義持の邸宅と近接した位置で生活しており、同一地域内でそれぞれの拠点を持ちながら活動していました。これにより、参内や儀礼の際には同行する機会も生まれています。こうした動きから、義嗣は義満死後も朝廷儀礼の場に継続して関与し、官位と行動の両面で活動を続けていたことが確認できます。
出奔と事件の展開
高雄出奔と上杉禅秀の乱
応永23年(1416年)10月29日の深夜、足利義嗣は京都を離れて山城国高雄へ向かい、その場で出家しました。この行動は同日に鎌倉で発生した上杉禅秀の乱と重なっており、幕府側では両者の関係が問題となりました。上杉禅秀は鎌倉公方足利持氏に対して挙兵しており、幕府は持氏を支持する方針を決定しています。
義嗣は禅秀と婚姻関係で結びついた家と関係を持っていたため、出奔は単なる出家ではなく、鎌倉の反乱と結びついた行動として扱われました。その結果、義嗣は侍所の手によって捕縛され、京都へ連れ戻されます。拘束後は仁和寺に置かれ、さらに相国寺林光院へ移されて監視下に置かれました。処置をめぐっては管領細川満元が慎重な対応を示す一方で、畠山満家は処断を主張しており、幕府内部でも判断が分かれる状況となっていました。
関係者の処分と連鎖的な展開
義嗣の拘束後、側近や関係者への処分が順次実施されました。近臣であった山科教孝と日野持光は加賀への流罪が命じられましたが、移送の途中で命を落としています。義嗣に近い立場にあった人物にも直接的な影響が及び、周囲の人間関係にも大きな変化が生じました。
応永25年(1418年)1月24日、義嗣は将軍足利義持の命令により処分されました。この際、富樫満成が執行に関与しており、処分方法については殺害とする記録と自害とする記録が残されています。その後も事件は収束せず、富樫満成が畠山満慶や山名時煕、土岐康政らの関与を訴えたことで処分が広がりましたが、逆に満成自身も追及を受けて高野山へ逃れ、翌年に討たれています。義嗣の出奔をきっかけに、関係者への対応が連続して進められました。
最期と死後の扱い
処分後の動向と周辺への影響
義嗣の死後も、事件に関わった人物への対応は続けられました。義嗣の処分に関与した富樫満成が後に討たれたことから、処理の過程で責任の所在が再び問題となっています。また、関係者の中には処分後に復帰することなく没した者もおり、影響は長期間にわたりました。
義嗣の処遇は将軍家内部の問題として扱われ、幕府の命令に基づいて処理されています。記録には処分に至る経過や関係者の動きが複数残されており、京都と鎌倉で同時に進行していた政治状況の中で対応が進められていた様子が読み取れます。鎌倉での上杉禅秀の乱と同時期に発生したことで、両地域の情勢が連動する形で推移していました。
追贈と神号の授与
義嗣の死からおよそ10年後の永享元年(1429年)9月17日、朝廷は義嗣に従一位を追贈しました。同月29日には「新大倉宮」の神号が与えられ、祭祀の対象となっています。これらは朝廷による正式な決定として記録に残されています。
従一位は公家社会における最高位であり、追贈という形でその地位が与えられました。また神号の授与によって、義嗣は神として祀られる存在となり、死後の扱いが改めて定められています。義嗣に関する記録は公家の日記や幕府文書に散在しており、出奔から処分、死後に至るまでの経過が断片的に確認できます。追贈と神号の授与は、その中でも明確に確認できる出来事として記録されています。


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