【日本史】武田義信とは?信玄の後継者と今川同盟・東光寺の最期を解説

室町時代

武田義信は、武田信玄の長男として家を継ぐことを期待された武将です。今川義元の娘を妻に迎え、甲斐と駿河を結ぶ同盟の一端を担いましたが、父との対立によって後継者の立場を失いました。

義信の生涯をたどると、戦国大名の婚姻が味方を増やす一方、領土を広げる方針と衝突することも分かります。元服と結婚から東光寺での幽閉、1567年の死、武田氏の南への進出までを順に見ていきましょう。

ひと目でわかる武田義信

武田義信は信玄と三条夫人の長男です。将軍から名前の一字を受け、今川氏との婚姻を通じて武田氏の後継者として育ちました。今川氏との関係をめぐる方針の違いも背景にあったとされる父子の対立を経て、東光寺に幽閉された後、1567年に亡くなりました。

  • 1538年に信玄と三条夫人の長男として生まれ、元服で将軍から「義」の字を受ける。
  • 今川義元の娘を妻に迎え、駿河との結び付きを担う。
  • 1560年の桶狭間後、今川氏の衰退で同盟の前提が揺らぐ。
  • 今川氏との関係をめぐる方針の違いも背景に、父子の対立が深まる。
  • 1565年、守役の飯富虎昌が謀反の疑いで処刑される。
  • 同年、甲府の東光寺に幽閉され、後継者の立場を失う。
  • 1567年に亡くなり、妻は今川氏のもとへ戻る。
  • 義信の死後、武田氏は駿河へ進み、勝頼が次の当主となる。

武田氏の後継者として育つ

三条夫人の子として生まれ将軍の一字を受ける

義信は天文7年(1538年)、武田信玄と三条夫人の間に生まれました。信玄の長男であり、武田家の次の当主となることを期待された人物です。嫡男とは、家を継ぐ中心的な後継者とされた男子のことです。義信が成長した時期、父の信玄は甲斐から信濃へ勢力を広げていました。そのため義信には、信玄が拡大していく武田氏の領国と家臣団を、次の世代へ引き継ぐ役割が期待されていました。

義信は数え年13歳で元服します。元服とは、武家の男子などが子どもから大人の一員となるために行った儀式です。このとき義信は、室町幕府の将軍・足利義輝から「義」の一字を与えられたとされています。

ただし、元服したからといって、すぐに信玄から家督を譲られたわけではありません。信玄が当主として領国を広げる一方、義信は次の当主となるための立場を整えていきました。その立場をさらに重要なものにしたのが、隣国・駿河の今川氏との婚姻でした。

今川氏との婚姻で駿河との同盟を支える

義信は今川義元の娘を妻に迎えました。武田氏と今川氏の間には、すでに信玄の姉が義元へ嫁ぐ婚姻関係があり、義信の結婚によって両家の結びつきは次の世代にもつながることになります。戦国大名にとって婚姻は、単なる家族同士の結婚ではありませんでした。隣国との戦争を避け、互いに協力する関係をつくるための重要な外交手段でもあったのです。

やがて甲斐の武田氏、駿河の今川氏、相模の北条氏の間には婚姻をともなう同盟関係が成立します。一般に「甲相駿三国同盟」と呼ばれる関係です。信玄にとって南の今川氏や東の北条氏との関係が安定すれば、その分だけ北の信濃へ軍勢を向けやすくなります。

ところが、この関係を大きく変える出来事が起こります。永禄3年(1560年)、今川義元が桶狭間の戦いで討たれたのです。義信の妻の父が亡くなっただけでなく、武田氏を取り巻く外交関係そのものが変化し始めました。

義信事件と武田氏の方針転換

桶狭間の後に対立が深まり東光寺へ幽閉される

永禄3年(1560年)、今川義元は桶狭間の戦いで織田信長に敗れ、命を落としました。今川氏は息子の氏真が継ぎましたが、三河では後の徳川家康となる松平元康が自立するなど、今川氏を取り巻く状況は大きく変化していきます。

こうしたなか、信玄はそれまで同盟を結んでいた今川氏との関係を見直し、駿河への進出を考えるようになります。ここで難しい立場に置かれたのが義信でした。義信の妻は今川義元の娘です。父・信玄が今川氏を攻めれば、義信にとっては妻の実家と武田氏が戦うことになります。

永禄8年(1565年)には、義信の傅役を務めていた飯富虎昌が、信玄への謀反に関わったとして処刑されました。傅役とは、若い後継者の教育や補佐を担う重要な立場です。そして義信自身も甲府の東光寺に幽閉されました。

それまで武田家の次期当主として育てられてきた義信は、ここで後継者として活動することができなくなります。将軍から一字を受け、今川氏との婚姻によって武田家の将来を担うはずだった義信の立場は、大きく変わってしまったのです。

1567年の死で武田氏の後継者が変わる

東光寺に幽閉された義信は、永禄10年(1567年)に亡くなりました。数え年30歳でした。現在の甲府にある東光寺には義信の墓が残っています。また、今川氏から迎えていた義信の妻も実家へ戻り、婚姻によって結ばれていた武田氏と今川氏の関係も失われていきました。

そして義信が亡くなった翌年の永禄11年(1568年)、信玄は駿河への侵攻を開始します。

駿河侵攻の先で勝頼が後継者となる

信玄が駿河へ侵攻すると、それまで婚姻によって結ばれていた今川氏は、武田氏が領国を奪う相手へと変わりました。さらに今川氏と関係の深かった北条氏も武田氏に反発し、武田・今川・北条による三国同盟は完全に崩れていきます。

一方、義信を失った武田家では、新たな後継者を考えなければなりませんでした。そのなかで重要な立場になっていったのが、信玄の子・武田勝頼です。信玄が元亀4年(1573年)に亡くなると、勝頼が武田氏を率いる立場となりました。

義信の生涯を見ると、戦国大名の後継者が血筋だけで決まる存在ではなかったことが分かります。武田氏と今川氏の外交関係が変化するなかで、義信の立場も変わり、その死は武田家の後継者問題にも大きな影響を与えました。信玄から義信へ続くはずだった武田氏の継承は実現せず、その役割は勝頼へと移っていくことになったのです。

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