【日本史】源義親とは?源義家の子が追討されるまでの生涯と平氏台頭への影響

平安時代の武士・源義親を題材にしたイメージイラスト 平安時代

源義親(みなもとのよしちか)は、源義家の子として生まれ、対馬守を務めた平安時代後期の武士です。九州での殺害や官物の収奪を告発され、隠岐への配流を命じられました。その後、出雲でも国司側と対立し、平正盛の追討を受けて討たれたとされています。

義親を追討した功績によって名を上げた正盛は、平清盛の祖父にあたります。この記事では、義親が朝廷の追討対象となるまでの経緯をたどり、出雲での活動や死後に残った疑問、伊勢平氏の台頭との関わりを紹介します。

ひと目でわかる源義親

源義親は、源義家の子で対馬守を務めた武士です。九州での行動を告発されて隠岐への配流を命じられた後、出雲でも国司側と対立しました。追討を担った平正盛は、義親を討ち取ったと報告し、その功績で但馬守に任じられています。

  • 源義家の子で、左兵衛尉を経て対馬守を務めた。
  • 1101年、九州での殺害や官物の収奪を告発された。
  • 義家は帰京を促したが、派遣した家人も義親側に加わった。
  • 1102年末、隠岐への配流を命じられた。
  • 1107年、出雲で目代らを殺害し、年貢などを奪ったとされる。
  • 1108年、平正盛が義親を討ち取ったと報告した。
  • 追討の功績によって正盛は但馬守に任じられ、地位を高めた。
  • 追討後も義親を名乗る人物が現れ、その最期には疑問が残った。

源義家の子として生まれ、対馬守となる

源義家の子として朝廷に仕える

源義親は、平安時代後期に活躍した源義家の子として生まれました。義家は前九年の役や後三年の役で活躍し、「八幡太郎」の名で知られた武将です。義親の生年や幼少期については詳しい記録が残されていませんが、成長後は左兵衛尉を経て対馬守に任じられ、父と同じく朝廷に仕える武士として活動しました。

左兵衛尉は宮中の警備などを担う官職で、対馬守は対馬国を治める国司にあたります。現在の長崎県に属する対馬は、九州と朝鮮半島の間に位置する島で、古くから大陸との交流や海上交通に関わっていました。義親はこの対馬守として、九州方面で活動するようになります。

当時の武士にとって、朝廷から官職を与えられることは、武力だけでは得られない権威を持つことでもありました。義親も武名の高い義家の子というだけでなく、自ら官職を得て活動していましたが、その九州での行動が朝廷から問題視されるようになります。

1101年、九州での行動を大江匡房に告発される

康和3年(1101年)、義親は大宰府の大江匡房から、九州で人々を殺害し、官物を奪ったとして告発されました。官物とは朝廷や国司に納められる租税などを指し、国司の官職を持つ義親が、その官物を奪ったことは重大な問題とされました。

大宰府は九州の行政や軍事を統括する重要な役所であり、義親はその命令にも従いませんでした。そこで朝廷は義親への対応を協議し、追討を進める一方で、京都へ呼び戻そうとしました。

父の義家も事態の収拾を図り、家人の藤原資通を九州へ派遣します。しかし、資通は義親を説得して帰京させることができず、かえって義親側に加わりました。さらに、義親側は朝廷の追討使を殺害したと伝えられています。

義親を呼び戻すために派遣された人物まで現地で義親に加わったことで、問題はさらに深刻になりました。義家の働きかけでも事態は収まらず、朝廷はより重い処分を下すことになります。

隠岐への配流と出雲での反乱

1102年、隠岐への配流を命じられる

康和4年(1102年)末、朝廷は義親に隠岐国への配流を命じました。隠岐は現在の島根県沖に浮かぶ島々で、都から遠く離れた流刑地の一つでした。

義親が処罰された背景には、九州での殺害や官物の収奪だけでなく、朝廷の召還命令に従わず、義親側が追討使を殺害したこともありました。父の義家は朝廷に仕えて武名を上げた武士でしたが、その子である義親も処分を免れることはできませんでした。

翌1103年3月には隠岐へ送られたとされます。ただし、義親が実際に隠岐へ渡って配流生活を送ったのかについては、史料によって伝え方が異なります。隠岐へ流されたとする記録がある一方、配流先には向かわず、出雲にとどまったとする記録もあります。

いずれにしても、配流を命じられた後も義親の活動は終わりませんでした。やがて出雲国に現れた義親は、再び朝廷側の役人と対立し、追討軍を派遣されることになります。

1107年、出雲で目代を殺害し、官物を奪う

嘉承2年(1107年)6月、義親は出雲国で目代らを殺害し、年貢などを奪ったと伝えられています。目代とは、国司に代わって現地で政務を行う役人のことで、当時の出雲守は藤原家保でした。

平安時代後期の国司には、任国へ赴かず、現地の政務を目代などに任せる者もいました。国司側は地方から年貢や特産物を集めて都へ送っていましたが、その徴収をめぐって現地の武士や有力者と対立することもありました。

義親が活動した出雲でも、国司の藤原家保と地域の有力者との間に対立があったと考えられています。実際、義親に味方した者は出雲国内だけでなく、周辺の国々にも存在したと伝えられています。義親が単独で役所を襲ったというよりも、国司の支配に反発する武士たちと結びついて行動していた可能性があるのです。

もっとも、義親が現地勢力の求めに応じて行動したのか、自ら争いを主導したのかについては、確かなことは分かっていません。ただ、配流を命じられた義親が出雲で再び国司側の役人を殺害し、年貢などを奪った事件は、朝廷による追討の対象となりました。こうして義親の行動は、朝廷が軍勢を派遣して鎮圧を図る源義親の乱へと発展します。

平正盛による追討と源義親の最期

朝廷が平正盛を追討使として派遣する

出雲での義親の行動が問題となると、朝廷は義親を討伐するため、因幡守の平正盛を追討使に任じました。正盛は平清盛の祖父にあたる人物で、当時は白河院との関係を深めながら活動していた武士です。

義親の父である義家は嘉承元年(1106年)に亡くなっており、義親が出雲で事件を起こした頃には、もはや父が直接その行動を抑えることはできませんでした。九州での事件では義家が家人を派遣して解決を図りましたが、出雲では朝廷が正盛に追討を命じ、武力による鎮圧を図ったのです。

嘉承2年(1107年)12月19日、正盛は義親追討の命令を受けました。自らの軍勢に加え、因幡や伯耆でも兵を集めて出雲へ向かいます。義親には周辺地域の武士たちも味方していたとされますが、翌年の正月には、正盛から義親を討ち取ったとの報告が届きます。

1108年、出雲で討ち取られたと報告される

『松江市史』の解説によると、正盛が出雲へ到着したのは嘉承3年(1108年)1月6日で、義親を討ち取ったとの報告が京都に届いたのは1月19日です。1月29日には、正盛が義親らの首を携えて京都へ戻りました。

対馬守として九州方面で活動した義親は、康和3年(1101年)の告発から約7年後に追討されることになりました。最初の事件では父の義家が説得を試みましたが、義親は帰京せず、配流処分を受けた後も出雲で再び事件を起こしています。最終的には朝廷が別の武士を追討使として派遣し、義親を討ち取ったとの報告を受けたのです。

正盛はこの功績を認められ、帰京に先立って但馬守へ任じられています。因幡よりも豊かな国とされた但馬への任官は、正盛にとって大きな恩賞でした。義親の追討は正盛が武将として名声を高め、白河院のもとで地位を強めるきっかけとなり、後に平忠盛・清盛へと続く伊勢平氏の発展にも関わる出来事となりました。

一方、義親を失った河内源氏では、その後も一族の争いが続きます。天仁2年(1109年)には義親の弟である源義忠が殺害され、さらに義家の弟・義綱の一族も追討されました。義親の死だけが原因ではありませんが、義家の死後に起きた一連の事件は、河内源氏の勢力を揺るがすことになりました。

源義親の死後に残された問題

義親の追討後も生存を疑う声が残る

正盛が義親を討ち取ったと報告した後も、義親の死をめぐる疑問は残りました。届けられた首が本当に義親のものだったのかを疑う声があり、後には義親本人を名乗る人物が各地に現れています。

永久5年(1117年)には越後で義親を名乗る人物が現れ、大治5年(1130年)までには常陸や近江などでも同様の人物が確認されています。義親を名乗る者が現れたことで、出雲で討たれたのは別人だったのではないかという話も残りました。

ただし、そうした人物が実際の義親だったと確認できるわけではありません。一般には嘉承3年(1108年)に正盛によって追討されて没したとされていますが、その最期には当時から疑問が持たれていたのです。

源為義へと続く河内源氏の系譜

義親は一般に、源為義の父とされ、系図上では義親から為義、義朝、頼朝へとつながります。ただし、為義の出自には異説もあり、この親子関係については研究上の議論が残っています。

義親の追討後も河内源氏が途絶えたわけではありませんが、義家の死後には義忠の殺害や義綱一族への追討が相次ぎ、家督の継承は不安定な状況にありました。こうした一族の争いを経て、為義が河内源氏の中心となり、後の義朝や頼朝の時代へとつながっていきます。

源義親は、武名の高い義家の子として朝廷に仕え、対馬守にまで任じられながら、九州での行動を告発され、隠岐への配流処分を受けた人物でした。その後も出雲で国司側の役人と対立し、最終的には平正盛に追討されたと伝えられています。また、その追討によって平正盛が功績を認められたことは、後に伊勢平氏が勢力を伸ばしていく過程でも重要な出来事となりました。

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