【日本史】九条兼実とは?源頼朝との協力、建久七年の政変と玉葉を解説

九条兼実の肖像を用いたアイキャッチ画像 平安時代

九条兼実(くじょうかねざね)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて、摂政・関白を務めた公卿です。源頼朝の支持を受けて朝廷の政治を担いましたが、建久7年(1196年)の政変で失脚しました。日記『玉葉』の作者であり、法然に深く帰依した人物としても知られています。

兼実の生涯には、平氏の台頭、鎌倉幕府の成立、後鳥羽天皇の政治への関与という大きな変化が重なっています。この記事では、兼実が頼朝と結んで摂関の地位を得た経緯から、娘の入内と政変、法然との交流までをたどり、武士が力を伸ばす時代に公家として何を目指したのかを見ていきます。

ひと目でわかる九条兼実

九条兼実は、源頼朝の支持を受けて摂政・関白となった公家です。娘を後鳥羽天皇の后とし、家の地位を固めましたが、1196年の政変で失脚しました。その後も法然への信仰を深め、子孫へ家を伝えました。日記『玉葉』には、平氏の台頭から鎌倉幕府成立に至る時代の動きが残されています。

  • 1149年、藤原忠通の三男として生まれる。
  • 若くして右大臣となり、朝廷の政治や社会の動きを日記『玉葉』に記す。
  • 1186年、源頼朝の支持を受けて摂政となる。
  • 娘の任子を後鳥羽天皇の后とし、1191年に関白となる。
  • 1196年の政変で関白を退き、一族も要職を離れる。
  • 法然に帰依し、1198年に『選択本願念仏集』の撰述を求めたとされる。
  • 1202年に出家し、1207年に亡くなる。

摂関家の三男として生まれ、朝廷の要職へ進む

藤原忠通の子として生まれ、若くして内大臣となる

九条兼実(くじょうかねざね)は久安5年(1149年)、摂政・関白を務めた藤原忠通の三男として生まれました。異母兄には近衛基実と松殿基房がおり、同母弟には、後に天台座主となり『愚管抄』を著した慈円がいます。

父の忠通は、保元の乱で弟の藤原頼長と争い、後白河天皇方につくことで摂関家の主導権を守った人物です。兼実もこうした家柄を背景に、幼い頃から朝廷の官職に就き、将来は摂関家の政治を担う人物として育てられました。

保元3年(1158年)、兼実は10歳で朝廷に出仕し、官位を授けられます。その後も異例の速さで昇進を重ね、永暦元年(1160年)には権中納言、長寛2年(1164年)には内大臣に任じられました。内大臣は朝廷の重要な政務を担う高官であり、兼実はわずか16歳で大臣の地位に進んだことになります。

さらに仁安元年(1166年)には右大臣となり、18歳という若さで太政官の上位に立ちました。しかし、兼実が大臣となった時点で、摂政や関白として政治を主導できたわけではありませんでした。

摂関家では兄の基実や基房が先に摂関の地位に就いており、兼実は右大臣として政務に携わりながら、後継者となる機会を待つことになります。

平清盛の勢力拡大と朝廷の政治を見つめる

兼実が右大臣となった頃、朝廷では平清盛が急速に地位を高めていました。清盛は保元の乱と平治の乱で軍事的な功績を挙げ、仁安2年(1167年)には武士として初めて太政大臣に任じられました。さらに皇室や摂関家との婚姻関係を築き、平氏一門の政治的な影響力を強めていきます。

兼実の兄・近衛基実も清盛の娘・盛子を妻としており、摂関家と平氏は婚姻によって結ばれていました。しかし、基実が仁安元年(1166年)に亡くなると、摂関家の政治を担う立場は兄の松殿基房へ移ります。

兼実は基房のもとで右大臣を務め続けましたが、朝廷で平氏の影響力が強まることには警戒心を抱いていました。特に平氏一門が官職や所領を広げ、朝廷の人事に深く関わる状況を問題視していたことが、日記『玉葉』からうかがえます。

治承3年(1179年)、清盛は軍勢を率いて京都へ入り、後白河法皇の院政を停止させました。このとき関白だった基房も解任され、代わって近衛基実の子・基通が関白となります。兼実自身は右大臣の地位を保ちましたが、朝廷の政治は清盛の軍事力によって大きく変えられました。

翌治承4年(1180年)からは源頼朝や源義仲らが挙兵し、全国に戦乱が広がります。兼実は京都で右大臣として活動しながら、平氏の都落ちや義仲の入京など、政治の中心が次々と変わる時代を経験することになりました。

源頼朝と協力し、摂政として政治を主導する

1185年、源頼朝の支持によって内覧となる

元暦2年(1185年)3月、壇ノ浦の戦いで平氏が滅亡すると、東国を支配する源頼朝の力は、京都の政治にも大きな影響を与えるようになりました。

頼朝は鎌倉を拠点として関東の武士たちを統率していましたが、朝廷から官職や土地支配に関する権限を認めてもらう必要もありました。そのため、京都で政治を進めるうえで協力できる公卿を求めていました。そこで頼朝が支持したのが、長く右大臣を務めてきた兼実です。

兼実もまた、平氏の台頭によって弱まっていた摂関家の政治的な地位を回復したいと考えていました。後白河法皇の院政が続くなか、頼朝の協力を得ることは、朝廷で自らの意見を通すための重要な支えとなったのです。

文治元年(1185年)12月、兼実は頼朝の後押しを受けて内覧の権限を認められました。内覧とは、天皇に提出される文書などを事前に確認する権限です。兼実は右大臣に加えて内覧となったことで、朝廷の重要な政治判断に、これまで以上に深く関われるようになりました。

ただし、頼朝が兼実を支持したのは、単に個人的な親交があったからではありません。頼朝は後白河法皇の影響力を抑えながら、自らの権限を朝廷に認めさせようとしており、兼実との協力には双方の政治的な目的があったのです。

1186年、後鳥羽天皇の摂政となる

文治2年(1186年)3月12日、兼実は近衛基通に代わって摂政に任じられ、藤原氏の氏長者にもなりました。38歳で、長年望んでいた摂関の地位に就いたことになります。

当時の天皇は後鳥羽天皇でした。後鳥羽天皇はまだ幼く、兼実は摂政として朝廷の政務を担う立場となりました。

兼実が摂政となった背景には、頼朝との協力関係がありました。前年、後白河法皇は源義経の求めに応じて頼朝追討の命令を出しましたが、義経が十分な軍勢を集められずに京都を離れると、方針を変えて義経追討を命じています。頼朝はこうした朝廷の動きを警戒し、自分と協力できる兼実を政務の中心へ進めようとしました。

一方、兼実は摂政となったことで、朝廷の人事や訴訟、宮廷の儀式などを進める立場を得ました。ただし、後白河法皇は引き続き院政を行っており、兼実がすべての政治判断を自由に下せたわけではありません。

兼実は法皇との関係を調整しながら、頼朝の支援を利用して摂関家の権威を回復させようとしたのです。

1187年、記録所の設置によって土地訴訟の処理を進める

兼実は摂政となると、朝廷の政治を立て直すための仕事にも取り組みました。その一つが、文治3年(1187年)に設置された記録所です。

当時、朝廷には荘園や公領の土地支配をめぐる訴えが数多く寄せられていました。源平の争乱によって各地の武士が土地を占領したり、従来の領主への年貢納入が滞ったりする問題も起こっていたのです。

頼朝も朝廷に対して土地の訴訟を適切に処理するよう求めており、兼実はこうした要請を受けて、訴訟を審理するための記録所を設けました。記録所では土地の権利を示す文書や過去の裁定などを調べ、争いを解決するための審議が行われました。

兼実は、武士の軍事力だけでは土地の秩序を回復できないことを理解していました。誰が土地から年貢を受け取る権利を持つのかを明確にするためには、朝廷の文書や訴訟制度による判断も必要だったのです。

こうした取り組みは、鎌倉の武士たちが軍事や治安を担う一方、朝廷も土地の権利をめぐる判断に関わり続けていたことを示しています。兼実は頼朝と協力しながら、朝廷が持つ政治や行政の機能を維持しようとしていたのです。

九条家の地位を高め、宮廷の政治と儀式を整える

1188年、嫡男・良通を失う

兼実は摂政として政務を担う一方、自らの子どもたちに摂関家の地位を継がせることも重視していました。

特に期待していたのが、長男の良通です。良通は若い頃から昇進を重ね、文治2年(1186年)には内大臣となっていました。兼実は良通に朝廷の政務や儀式を学ばせ、将来は自分の後を継ぐ人物として育てようとしていました。

しかし文治4年(1188年)、良通は22歳で急死します。兼実にとって、これは大きな打撃でした。摂政として政治の中心に立つことができたものの、その地位を継ぐはずだった長男を失い、家の将来を改めて考えなければならなくなったのです。

その後、兼実は次男の良経を後継者として重視するようになります。

良経は和歌にも優れた人物で、後に摂政・太政大臣を務めることになりますが、兼実はその成長を支えながら、九条家の地位を次の世代へつなごうとしました。

1190年、娘・任子を後鳥羽天皇の中宮とする

建久元年(1190年)、兼実は娘の任子を後鳥羽天皇のもとへ入内させました。任子は同年、中宮となり、兼実は天皇の后の父という立場を得ます。

当時の摂関家にとって、娘を天皇の后にすることは重要な政治活動でした。もし任子が皇子を産み、その皇子が次の天皇となれば、兼実は天皇の外祖父として朝廷で強い影響力を持つことができたためです。

兼実は頼朝との協力によって摂政となりましたが、九条家の地位を長く維持するためには、皇室との婚姻関係も必要だと考えていました。そのため、任子の入内は単なる家族の婚姻ではなく、九条家が摂関家としての立場を固めるための重要な取り組みだったのです。

また、兼実は宮廷の儀式や音楽を重視し、戦乱によって途絶えかけていた行事の復興にも取り組みました。

当時の公家社会では、宮廷の儀式を正しく行うことが政治の秩序を示す意味を持っていました。兼実は過去の記録を調べ、音楽や儀礼の知識を子どもたちへ伝えながら、摂関家が担ってきた宮廷文化を維持しようとしていたのです。

1191年、関白となり朝廷の政治を担う

建久2年(1191年)12月、兼実は摂政から関白に移りました。摂政は幼い天皇に代わって政務を行う役職であり、関白は成長した天皇を補佐する役職です。後鳥羽天皇が成長したことに伴い、兼実も政治を担う立場を変えたのです。

翌建久3年(1192年)3月、長年にわたって院政を行ってきた後白河法皇が亡くなりました。後白河法皇は兼実が摂政となった後も朝廷で強い影響力を持っており、兼実はその意向を無視して政治を進めることができませんでした。しかし、法皇の死後には朝廷の政治体制が変化し、兼実が関白として政務を主導する機会が増えていきます。

同年7月には、源頼朝が征夷大将軍に任じられました。兼実はその任命に関わり、朝廷と鎌倉の協力関係を維持しようとしました。

しかし、兼実の政治的な地位が高まる一方で、後鳥羽天皇の周囲には新たな有力者が現れ、兼実と対立するようになります。

建久七年の政変によって関白を失う

源通親が後鳥羽天皇との関係を強める

兼実が関白として活動するなか、朝廷で影響力を強めていたのが源通親です。通親は後白河法皇の側近として活動してきた公卿で、後鳥羽天皇のもとでも政治に深く関わるようになっていました。特に重要だったのが、通親の養女である源在子の存在です。

在子は後鳥羽天皇の後宮に入り、建久6年(1195年)に為仁親王を産みました。為仁親王は後の土御門天皇です。

一方、兼実の娘・任子も同じ年に昇子内親王を産んでいましたが、男子は生まれていませんでした。摂関家にとって、皇子の誕生は政治的な地位を大きく左右する問題です。通親は在子が皇子を産んだことで、次の天皇の母方の親族として影響力を持つ可能性を得ました。

兼実は任子を中宮にすることで九条家の地位を固めようとしていましたが、通親が皇子の母方の一族となったことで、その優位が揺らぐことになります。

さらに源頼朝も、娘の大姫を後鳥羽天皇の後宮へ入れることを望んでいました。これまで頼朝と兼実は協力関係を築いてきましたが、後宮をめぐる思惑が異なり、両者の関係にも変化が生じるようになります。

1196年、関白を罷免され政治の中心から退く

建久7年(1196年)、兼実は関白の地位を失いました。この政変では源通親が大きな役割を果たし、兼実と対立する近衛家の勢力を支援しました。その結果、兼実に代わって近衛基通が関白に復帰します。

また、兼実の娘・任子も後鳥羽天皇の後宮から退出することになりました。さらに、兼実の弟・慈円が天台座主を辞任するなど、九条家に関わる人々も朝廷や仏教界での重要な地位を失っています。

この一連の出来事は「建久七年の政変」と呼ばれています。

兼実の失脚には、源通親との対立に加え、後鳥羽天皇の政治への関与や、頼朝との関係の変化も関わっていました。

特に、後鳥羽天皇が成長するにつれて、自ら政治に関わろうとするようになったことは重要です。兼実は関白として朝廷の政務を担っていましたが、天皇自身やその周囲の公卿たちが、兼実を通さずに政治を進めようとする動きも生まれていました。

兼実はこの政変によって関白を退き、その後は再び政治の中心へ戻ることがありませんでした。

法然に帰依し、念仏の教えを受け継ぐ

1189年、法然を招いて念仏の教えを聞く

兼実は政治の中心にいた頃から仏教への関心が深く、さまざまな僧侶と交流していました。そのなかでも、晩年の兼実に大きな影響を与えた人物が、浄土宗の開祖として知られる法然です。

文治5年(1189年)8月1日、兼実は法然を自邸へ招き、仏教の教えや極楽浄土への往生について質問しました。この出来事は兼実自身の日記『玉葉』に記されています。

その前年には長男の良通が亡くなっており、兼実は摂関家の将来を担うはずだった息子を失っていました。こうした出来事も、兼実が死後の救いや仏教の教えを深く考える背景の一つになったと考えられています。

法然は阿弥陀仏の本願によって人々が救われると説き、念仏を称えることを浄土往生の中心に置いていました。兼実は法然の教えに共感し、その後も交流を続けます。法然は兼実のもとで行われる念仏会に招かれ、授戒などにも関わりました。兼実は関白として政治を進めながら、法然から仏教の教えを学び、自らの信仰を深めていったのです。

1198年、法然に『選択本願念仏集』の執筆を求める

建久9年(1198年)、兼実は法然に念仏の教えをまとめた書物の執筆を求めました。この依頼によって著されたとされるのが、『選択本願念仏集(せんちゃくほんがんねんぶつしゅう)』です。

『選択本願念仏集』は、阿弥陀仏の本願に基づく念仏の教えを、仏教の経典や中国の高僧たちの著作を引用しながら論じた書物です。法然は、人々が浄土へ往生するための道として、阿弥陀仏の本願を信じて念仏を称えることを重視しました。

兼実が執筆を求めた背景には、法然から直接聞いてきた教えを、書物として整理して残したいという思いがあったと考えられています。

ただし、『選択本願念仏集』が成立した詳しい経緯には異説もあり、建久9年(1198年)頃にまとめられたとするのが一般的です。この書物は後に浄土宗の根本的な教典となり、法然の教えを後世へ伝える重要な役割を果たしました。

兼実自身が著したわけではありませんが、兼実の依頼が、法然の念仏思想を体系的にまとめるきっかけとなったことは、その宗教活動を考えるうえで重要です。

1202年、出家して円証と名乗る

建仁2年(1202年)、兼実は出家し、円証と名乗りました。建久七年の政変によって関白を失ってから、約6年が経過していました。兼実は政治の第一線から離れた後も、法然との交流を続け、念仏の教えに帰依していたのです。

ただし、出家によって九条家の将来に関心を失ったわけではありませんでした。兼実は子どもたちへ所領を譲るなど、家の財産や地位を次の世代へ引き継ぐ仕事にも関わっていました。

また、同じ建仁2年(1202年)には、息子の良経が摂政に任じられました。兼実自身が関白に戻ることはありませんでしたが、九条家は良経によって再び摂関の地位を得ることになります。

しかし、元久3年(1206年)、良経も若くして亡くなってしまいました。兼実は長男の良通に続いて、九条家の後継者として期待していた良経も失うことになったのです。

1207年の死と『玉葉』に残された記録

承元の法難で法然の流罪を止められずに亡くなる

建永2年(1207年)、法然の専修念仏をめぐって朝廷による弾圧が行われました。法然の門弟である住蓮や安楽らが処刑され、法然自身も土佐国への流罪を命じられます。親鸞も僧籍を奪われ、越後国へ流されることになりました。この事件は「承元の法難」と呼ばれています。

法然に深く帰依していた兼実は、処罰を軽くするために働きかけたと伝えられています。しかし、法然への流罪を取り消すことはできませんでした。

そして同年4月5日、兼実は亡くなりました。兼実は法然の流罪が解かれるのを見ることなく、生涯を終えたのです。

『玉葉』に平安末期から鎌倉初期の政治を記録する

兼実が残した最も重要な史料が、日記『玉葉(ぎょくよう)』です。『玉葉』には長寛2年(1164年)から建仁年間にかけて、兼実が見聞きした政治や社会の出来事が詳しく記されています。

特に重要なのが、源平の争乱から鎌倉政権の成立に至る時期の記録です。

兼実は右大臣として京都にいたため、平氏の政治や源義仲の入京、源頼朝との交渉など、当時の朝廷で起こった重要な出来事を身近に見聞きしていました。

日記には公卿たちの人事や朝廷の会議だけでなく、戦いの知らせや人々のうわさ、寺社の動向なども記されています。こうした内容は、軍記物語だけでは分からない当時の政治や社会を知るための重要な手がかりとなっています。

また、兼実は朝廷の儀式や音楽、和歌についても詳しく書き残しました。当時の公家社会では、儀式を正しく行うために過去の先例を調べることが重視されており、兼実も日記を通じてそうした知識を蓄積していました。

『玉葉』は平安時代末期から鎌倉時代初期の政治を考えるうえで、欠かせない史料となっています。

九条家の始祖として残したもの

兼実は、後に五摂家の一つとなる九条家の始祖としても知られています。

父の忠通から受け継いだ摂関家の家格をもとに、源頼朝との協力によって摂政・関白となり、自らの家を朝廷の政治における有力な家系へ発展させました。建久七年の政変では関白を失いましたが、息子の良経が摂政となり、その子孫も摂関家としての地位を受け継いでいきます。

また、後の九条家からは鎌倉幕府の将軍となる藤原頼経も輩出されました。これは兼実の死後の出来事ですが、九条家が朝廷と鎌倉の双方に関わる家系となっていくことを示しています。

兼実は政治家として活動するだけでなく、宮廷の儀式や音楽を重んじ、日記『玉葉』を残し、法然の念仏の教えが書物としてまとめられることにも関わりました。

九条兼実は、源頼朝と協力して摂政・関白の地位を得る一方、後鳥羽天皇の成長や朝廷内部の対立によって失脚した公卿です。 政治の中心から退いた後も、九条家の継承と仏教への信仰に関わり続け、その生涯と記録は、朝廷と鎌倉の関係が形成されていく時代を現在に伝えています。

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