後白河天皇(ごしらかわてんのう)は、平安時代末期に即位し、退位後も上皇・法皇として政治に関わった天皇です。保元の乱で皇位を守り、平清盛や源頼朝ら武士と協力や対立を重ねながら、朝廷の政治を担いました。今様を集めた『梁塵秘抄』を編んだ人物としても知られています。
その生涯は、武士が朝廷を支える存在から、独自の政権を築く存在へと変わっていく時期に重なります。この記事では、即位と保元・平治の乱から、清盛との関係、源平の争乱、頼朝との交渉までをたどり、後白河が変化する政治の中でどのように行動したのかを見ていきます。
ひと目でわかる後白河天皇
後白河天皇は、保元の乱で皇位を守り、退位後も上皇・法皇として政治を担った人物です。平清盛との対立で院政を止められながらも政治に復帰し、源平の争乱では義仲や頼朝と交渉しました。今様を集めた『梁塵秘抄』を残し、1192年に亡くなります。
- 1127年、鳥羽天皇の皇子・雅仁親王として生まれる。
- 1155年に即位し、翌年の保元の乱で崇徳上皇側を破る。
- 1158年に二条天皇へ譲位し、上皇として政治に関わる。
- 平清盛と協力する一方、皇位継承や人事・所領をめぐって対立を深める。
- 1179年、清盛の政変で幽閉され、院政を停止される。
- 源平の争乱では源義仲や源頼朝と交渉し、鎌倉政権との関係を築く。
- 今様の歌謡集『梁塵秘抄』を編み、1192年に亡くなる。
鳥羽天皇の皇子として生まれ、皇位に就く
1127年、鳥羽天皇の皇子として生まれる
後白河天皇は大治2年(1127年)、鳥羽天皇と中宮・藤原璋子の皇子として生まれました。名は雅仁親王といい、同じ母から生まれた兄には崇徳天皇がいます。母の璋子は後に待賢門院と呼ばれ、白河法皇のもとで育てられた女性でした。
当時の朝廷では、皇位を退いた上皇や法皇が政治を主導する院政が行われていました。雅仁親王が生まれた頃は白河法皇が、その死後は父の鳥羽上皇が政治の中心に立っており、天皇の交代も院政を行う上皇の意向によって大きく左右されていました。
雅仁親王は若い頃から音楽や今様を好み、宮廷の人々だけでなく、歌を伝える芸能者たちとも交流していました。しかし、皇位継承では早くから有力な候補とされていたわけではありません。
兄の崇徳天皇が皇位に就いており、その後は鳥羽上皇と藤原得子の間に生まれた体仁親王が近衛天皇として即位していました。雅仁親王は皇位に就く機会がないまま成長していましたが、近衛天皇の早すぎる死によって、その立場が大きく変わることになります。
1155年、近衛天皇の死後に即位する
久寿2年(1155年)7月23日、近衛天皇が17歳で亡くなりました。近衛天皇には皇位を継ぐ皇子がいなかったため、朝廷では次の天皇を誰にするかが問題となります。候補の一人には崇徳上皇の皇子・重仁親王がいました。しかし、鳥羽法皇は重仁親王ではなく、雅仁親王の子である守仁親王へ皇位を継がせようとしていました。
守仁親王は、鳥羽法皇の后である美福門院得子の養子として育てられていました。しかし、父の雅仁親王がまだ皇位に就いていなかったこともあり、守仁親王を直接即位させるのではなく、まず雅仁親王を天皇とする方針が取られます。
こうして久寿2年(1155年)7月24日、雅仁親王は29歳で即位し、第77代後白河天皇となりました。同年9月には守仁親王が皇太子となり、後白河天皇の次に皇位を継ぐ人物も定められます。
一方、崇徳上皇は息子の重仁親王を即位させることができず、自らが院政を行う可能性も失いました。後白河天皇の即位は、鳥羽法皇が望む皇位継承を実現させる一方、崇徳上皇との対立を深めることにもなったのです。
保元の乱に勝利し、朝廷の政治を進める
1156年、崇徳上皇方との戦いに勝利する
保元元年(1156年)7月2日、長年にわたって朝廷の政治を主導してきた鳥羽法皇が亡くなりました。
鳥羽法皇の死後、皇位継承をめぐって不満を抱いていた崇徳上皇と、後白河天皇の対立は急速に激しくなります。さらに摂関家でも、関白の藤原忠通と弟の藤原頼長が家督をめぐって争っており、皇室と摂関家の対立が重なっていました。
後白河天皇は忠通や信西らの支持を受け、平清盛や源義朝などの武士を集めました。一方、崇徳上皇は頼長と結び、源為義や源為朝、平忠正らを味方につけます。
そして同年7月11日、後白河天皇方の軍勢が崇徳上皇方の拠点である白河北殿を攻撃しました。この戦いが保元の乱です。天皇方は平清盛や源義朝らの軍勢によって上皇方を破り、戦いはその日のうちに決着しました。敗れた崇徳上皇は讃岐へ流され、頼長も負傷して逃れた後に亡くなります。
この勝利によって、後白河天皇は皇位を守るとともに、鳥羽法皇の死後に朝廷の政治を担う立場を確保しました。しかし、勝利を実現させたのは武士たちの軍事力であり、後白河天皇は彼らとの関係を保ちながら政治を進める必要がありました。
信西を重用し、荘園整理と大内裏の再建を進める
保元の乱の後、後白河天皇の政治を支えたのが信西です。信西は藤原通憲という名の学者出身の官人で、出家した後も鳥羽法皇に仕えて政治に関わっていました。信西は学問や過去の政治制度に詳しく、後白河天皇のもとで朝廷の改革を進めるようになります。
保元元年(1156年)、朝廷は「保元新制」と呼ばれる法令を出し、荘園の管理や寺社勢力の活動などを見直そうとしました。
当時、貴族や寺社が持つ荘園では、土地の権利が複雑になり、年貢の徴収や管理をめぐる争いが起こっていました。朝廷はこうした問題を整理し、土地の権利を確認するとともに、無秩序な荘園の拡大を抑えようとしたのです。
また、後白河天皇は信西のもとで大内裏の再建も進めました。大内裏は天皇の住居や朝廷の役所が集まる区域ですが、長年の火災や建物の老朽化によって、かつての施設の一部が失われていました。信西は造営を進めるための費用や労働力を確保し、荒廃していた朝廷の施設を再建しようとしました。
後白河天皇は保元の乱で勝利した後、信西の実務能力を利用して政治や財政の立て直しを進めました。しかし、信西に権限が集中したことで、朝廷のほかの有力者から反発が起こるようになります。
二条天皇へ譲位し、院政を始める
1158年、息子の二条天皇へ皇位を譲る
保元3年(1158年)8月11日、後白河天皇は皇太子の守仁親王へ皇位を譲りました。守仁親王は第78代二条天皇として即位し、後白河天皇は上皇となります。
この譲位は、近衛天皇の死後に鳥羽法皇が定めた皇位継承の方針を実現するものでした。後白河天皇は在位わずか3年ほどで皇位を退きましたが、政治から完全に離れたわけではありません。
後白河上皇は信西らの側近を通じて政治に関わり、院政を始めました。
しかし、二条天皇の周囲にも自ら政治を進めようとする公卿たちがおり、後白河上皇の院政がすぐに安定したわけではありませんでした。二条天皇はすでに成長しており、天皇自身の権限を重視する人々もいました。
1159年、平治の乱で信西を失う
平治元年(1159年)12月、後白河上皇の御所が藤原信頼や源義朝らの軍勢によって襲撃されました。信頼は後白河上皇の側近として昇進してきた人物でしたが、信西が政治の重要な権限を握っていることに不満を持ち、源義朝と結んで反乱を起こしたのです。
信頼らは後白河上皇を拘束し、さらに二条天皇も自分たちの管理下に置きました。一方、信西は襲撃を逃れたものの追い詰められ、自害することになります。これが平治の乱です。
当時、平清盛は熊野参詣のため京都を離れていましたが、事件を知ると急いで戻り、信頼らに対抗しました。清盛は二条天皇を自らの六波羅邸へ迎え、後白河上皇も信頼らの支配下から脱出します。その後、清盛の軍勢は源義朝らを破り、信頼も処刑されました。
後白河上皇は反乱から解放されましたが、長く政治を支えてきた信西を失います。一方、清盛は反乱を鎮圧した功績によって地位を高め、朝廷の政治を左右する有力な武将となりました。後白河上皇は今後、清盛との協力関係を通じて政治を進めることになります。
平清盛と協力し、院政の基盤を築く
高倉天皇の即位によって平氏との関係を深める
後白河上皇が平清盛と関係を深めるうえで重要だったのが、平滋子の存在です。滋子は清盛の妻・時子の妹で、後白河上皇の后妃となり、応保元年(1161年)に憲仁親王を産みました。この皇子は後に高倉天皇となります。
後白河上皇にとって、自らの皇子が次の天皇となれば、院政を進めるうえで大きな支えとなります。一方、平氏にとっても滋子が産んだ皇子が即位することは、皇室との関係を強める機会でした。
永万元年(1165年)、二条天皇が病によって譲位すると、その子の六条天皇が幼くして即位しました。しかし、六条天皇も3歳で皇位を譲ることになり、仁安3年(1168年)、後白河上皇の皇子である憲仁親王が高倉天皇として即位します。
この皇位継承によって、後白河上皇は自らの子を天皇とすることができ、院政の基盤を強めました。さらに清盛は、承安元年(1171年)に娘の徳子を高倉天皇へ入内させます。徳子は翌年に中宮となり、後白河上皇と平氏の関係は皇室の婚姻を通じていっそう深まりました。
後白河上皇は清盛の軍事力や経済力を利用しながら、天皇家の皇位継承と朝廷の政治を進めていったのです。
1169年に出家し、法皇となっても政治を続ける
嘉応元年(1169年)、後白河上皇は出家し、行真と名乗りました。以後は後白河法皇と呼ばれます。法皇とは、出家した上皇のことです。後白河法皇は出家後も政治から退かず、引き続き院政を行いました。
法皇が政治を進める拠点となったのは、京都東山に造営された法住寺殿です。法住寺殿は現在の三十三間堂周辺に広がっていた院御所で、後白河法皇はここで公卿たちと会い、朝廷の重要な問題について判断しました。
また、後白河法皇は仏教への信仰も深く、寺院の造営や仏事に積極的に関わりました。こうした宗教活動も、法皇としての地位を示す重要なものでした。
一方、政治の面では清盛との協力が続いていましたが、平氏一門が朝廷の官職や所領を増やすにつれて、両者の利害が一致しない場面も増えていきます。後白河法皇は院政の権限を維持しようとし、清盛は平氏一門の地位をさらに高めようとしていました。その対立は、やがて朝廷の政治を大きく揺るがす事件へと発展します。
平清盛との対立と院政の停止
1177年、鹿ケ谷事件で側近を失う
安元2年(1176年)、後白河法皇と平氏の関係をつないでいた平滋子が亡くなりました。滋子は高倉天皇の母であり、後白河法皇と清盛の双方にとって重要な人物でした。その死後、後白河法皇と清盛の間では、朝廷の人事や寺社の問題をめぐる対立が深まっていきます。
翌治承元年(1177年)、京都の鹿ケ谷で平氏を倒す計画が進められていることが発覚しました。
謀議に関わったとされたのは藤原成親や西光、僧の俊寛ら、後白河法皇に近い人々でした。清盛はこの動きを問題視し、西光を処刑したほか、成親や俊寛らを流罪にします。これが鹿ケ谷事件です。
事件の際、後白河法皇自身がどこまで謀議に関わっていたのかは明らかではありません。しかし、法皇が重用してきた側近たちが次々と処罰されたことで、院政を支える人々は大きな打撃を受けました。後白河法皇はその後も政治を続けましたが、清盛との関係は以前のような協力関係ではなくなっていきます。
1179年、清盛によって鳥羽殿に幽閉される
治承3年(1179年)6月、清盛の娘・盛子が亡くなると、後白河法皇は盛子が管理していた摂関家の所領を取り上げ、院の管理下に置きました。盛子は亡き夫・近衛基実から多くの所領を引き継いでおり、その収入は平氏と近衛家の結びつきを支えていました。
さらに同年7月、清盛の嫡男・重盛が亡くなると、後白河法皇は重盛の子・維盛が引き継いでいた越前国の知行権も取り上げ、側近の藤原俊盛・季能父子に与えました。知行国とは、その国の人事や収入に強い権限を持つ仕組みです。
清盛にとって、娘や息子の死後に一門の所領や知行国が相次いで奪われたことは、大きな打撃でした。平氏が築いてきた経済的な基盤だけでなく、朝廷での政治的な影響力まで弱められるおそれがあったためです。
同年11月、清盛は軍勢を率いて福原から京都へ入り、関白の松殿基房を解任して近衛基通を新たな関白に据えます。さらに後白河法皇に近い公卿たちを次々と解任し、朝廷の人事を大きく入れ替えました。そして11月20日、清盛は後白河法皇を鳥羽殿へ幽閉し、その院政を停止させます。この事件は「治承三年の政変」と呼ばれています。
後白河法皇は長年にわたって清盛と協力してきましたが、朝廷の官職や所領をめぐる対立によって、最後は清盛の軍事力で政治から排除されることになりました。
翌治承4年(1180年)には高倉天皇が退位し、清盛の孫である安徳天皇が即位します。清盛は安徳天皇の外祖父となり、後白河法皇に代わって高倉上皇を支える形で政治の主導権を握りました。しかし、平氏による政治が続くなか、各地では反平氏の動きが広がっていきます。
1181年、平清盛の死後に院政を再開する
治承4年(1180年)、後白河法皇の皇子・以仁王が源頼政とともに挙兵しました。以仁王は各地の源氏に平氏追討を呼びかけましたが、戦いに敗れて討ち取られます。しかし、その呼びかけは各地に伝わり、源頼朝や源義仲らが挙兵するきっかけとなりました。
一方、後白河法皇は清盛の監視下に置かれたままであり、朝廷の政治を自由に動かすことはできませんでした。同年6月には安徳天皇らとともに福原へ移され、京都の院御所から離れることになります。
その後、清盛は福原への遷都を断念して京都へ戻りましたが、各地の反乱を鎮圧できない状況が続いていました。
治承5年(1181年)正月、高倉上皇が亡くなります。さらに同年閏2月には清盛も病死しました。清盛という強い軍事力を持つ人物を失ったことで、平氏による朝廷の支配は大きく変化します。後白河法皇は院政を再開し、再び朝廷の政治に関わるようになりました。
もっとも、清盛の死によって平氏の勢力がすぐに失われたわけではありません。平氏一門は安徳天皇を支えながら戦いを続け、東国では頼朝、北陸では義仲が勢力を広げていました。後白河法皇は再び政治の中心へ戻ったものの、今度は全国に広がった戦乱への対応を迫られることになったのです。
平氏の都落ちと源義仲との対立
1183年、平氏が西国へ退くと後鳥羽天皇を即位させる
寿永2年(1183年)、源義仲の軍勢が北陸から京都へ迫ると、平氏は都を守ることが難しくなりました。同年7月、平氏一門は安徳天皇と三種の神器を伴い、西国へ向けて京都を離れます。しかし、後白河法皇は平氏とともに西国へ向かわず、京都へ戻って朝廷の政治を立て直す道を選びました。
問題となったのは、天皇が都からいなくなったことです。
平氏が安徳天皇を連れて去ったため、京都では天皇不在の状況が生じました。後白河法皇は皇位継承を検討し、同年8月、孫にあたる尊成親王を新たな天皇として即位させます。これが第82代後鳥羽天皇です。
しかし、三種の神器は安徳天皇とともに西国へ移っており、後鳥羽天皇は神器のないまま即位することになりました。その結果、西国の安徳天皇と京都の後鳥羽天皇が並び立つという、異例の状況が生まれます。
源義仲との関係が悪化する
平氏が京都を離れた後、源義仲は軍勢を率いて入京しました。後白河法皇は義仲に平氏の追討を命じましたが、両者の関係は次第に悪化していきます。
当時の京都では戦乱によって食料の供給が不安定になっており、義仲の軍勢による乱暴や略奪も問題となっていました。法皇は義仲に軍勢の取り締まりを求めましたが、十分な改善は見られませんでした。さらに義仲は皇位継承についても自らの意見を示し、法皇の方針と対立することになります。
こうしたなか、後白河法皇は東国で勢力を広げていた源頼朝との交渉を進めました。頼朝は義仲と同じ源氏の一族でしたが、関東の武士たちをまとめ、鎌倉を拠点として独自の勢力を築いていました。
後白河法皇は義仲だけに軍事を任せるのではなく、頼朝の力も利用することで京都の秩序を立て直そうとしたのです。
寿永二年十月宣旨で頼朝の東国支配を認める
寿永2年(1183年)10月14日、後白河法皇は頼朝の求めに応じて、東海道・東山道の諸国に関する宣旨を出しました。これが「寿永二年十月宣旨」です。
当時、東国では長年の戦乱によって荘園や公領の支配が混乱し、朝廷や寺社、貴族たちのもとへ年貢が届かなくなっていました。頼朝はこうした土地について、従来の領主の権利を回復させ、年貢の納入を実現することを朝廷へ申し出ます。
これに対して後白河法皇は、東海道・東山道の荘園や公領について、従来の領主への年貢納入や土地支配の回復を命じました。そして、その実施に頼朝が関わることを認めたのです。頼朝は北陸道も対象とするよう求めていましたが、後白河法皇は義仲との関係を考慮し、北陸道を対象から外しました。
この宣旨によって、頼朝は東国の土地支配に関わる権限を朝廷から認められました。一方、後白河法皇にとっては、頼朝の軍事力を利用して荘園や公領の秩序を回復し、朝廷や寺社の収入を確保する意味がありました。
後白河法皇は頼朝を無条件に認めたのではなく、朝廷の土地支配を回復させるため、その力を利用しようとしたのです。
1183年、義仲によって法住寺殿を襲撃される
後白河法皇が頼朝との関係を深めたことで、義仲との対立はいっそう激しくなりました。寿永2年(1183年)11月19日、義仲は軍勢を率いて法住寺殿を襲撃します。
法住寺殿は後白河法皇が長く政治を行ってきた院御所で、法皇はここに武士や僧兵を集めて義仲に備えていました。しかし、義仲の軍勢はこれを破り、法住寺殿を攻め落としました。この戦いでは天台座主の明雲らが討死し、法皇方の公卿や武士も大きな被害を受けました。
後白河法皇は義仲に身柄を押さえられ、再び政治活動を制限されることになります。清盛による幽閉から解放されて院政を再開した後白河法皇でしたが、今度は義仲によって政治の自由を奪われたのです。
しかし、この状況も長くは続きませんでした。
翌寿永3年(1184年)1月、頼朝が派遣した源範頼・義経らの軍勢が京都へ進軍し、義仲を破ります。義仲の敗死によって後白河法皇は再び政治を進められるようになり、今度は頼朝の軍勢と協力して平氏の追討を進めることになりました。
源頼朝と交渉し、朝廷と鎌倉の関係を築く
1185年、平氏滅亡後に義経と頼朝の対立へ関わる
寿永3年・元暦元年(1184年)、義仲を破った源範頼・義経らは、引き続き平氏との戦いに向かいました。後白河法皇は頼朝の軍勢に平氏追討を命じ、朝廷と鎌倉の協力関係を保とうとしました。
元暦2年(1185年)3月、壇ノ浦の戦いで平氏が敗れ、安徳天皇も亡くなりました。これによって平氏政権は滅亡します。
しかし、平氏との戦いが終わると、今度は頼朝と弟の義経が対立するようになります。義経は後白河法皇から検非違使などの官職を与えられ、京都で活動していました。検非違使は都の警察や裁判などに関わる役職で、朝廷にとっては義経の力を京都の治安維持に利用する意味がありました。
一方、頼朝は自らの許可なく義経が朝廷から官職を受けたことなどを問題視し、義経への不信を強めていました。後白河法皇にとって義経は、平氏を滅ぼすうえで重要な働きをした武将でしたが、その兄の頼朝も東国で強大な勢力を持っていました。
法皇は二人の関係が悪化するなかで、京都の政治をどのように維持するかという問題に直面することになります。
頼朝追討から義経追討へ方針を変える
文治元年(1185年)10月、義経と源行家は頼朝に対抗するため、後白河法皇へ頼朝追討の院宣を求めました。後白河法皇はこれを認め、義経らに頼朝追討の命令を与えます。
しかし、義経は京都で十分な兵力を集めることができず、同年11月には都を離れて西国へ向かおうとしました。義経の計画が失敗すると、後白河法皇は頼朝追討の命令を取り消し、逆に義経と行家を追討するよう命じます。
この急な方針転換は、後白河法皇が政治上の立場を変えながら対応していたことを示しています。義経が十分な軍勢を集められず、頼朝との対抗を続けることができなかったため、法皇が頼朝との関係を修復する必要に迫られたことです。
その後、頼朝は義経や行家の追討を理由として、全国の軍事や土地支配に関わる新たな権限を朝廷へ求めることになります。
1185年、守護・地頭につながる権限を頼朝に認める
文治元年(1185年)11月、頼朝は北条時政を京都へ派遣し、義経や行家の追討に必要な権限を朝廷へ求めました。この交渉によって、朝廷は頼朝が諸国に守護・地頭につながる軍事・警察や土地管理の担当者を置くことを認めます。
守護は国ごとの軍事や警察などを担い、地頭は荘園や公領での土地管理や年貢の徴収などに関わる役職です。
後白河法皇にとって、頼朝の権限拡大は朝廷の支配に影響する重要な問題でした。しかし、義経らの追討や地方の治安維持を進めるためには、頼朝の軍事力を利用する必要もありました。こうして朝廷は、地方の軍事や治安維持について頼朝の勢力に一定の権限を認めるようになります。
後白河法皇が直接すべての地方を支配する仕組みから、鎌倉の武士たちが軍事や土地の管理を担う仕組みへと変化していく、重要な転機でした。
1190年、上洛した源頼朝と対面する
建久元年(1190年)、頼朝は大軍を率いて京都へ上洛しました。頼朝にとっては、鎌倉を中心に築いてきた政治的な地位を、朝廷から正式に認めてもらうことが重要な目的でした。一方、後白河法皇にとっても、東国で強い軍事力を持つ頼朝との関係を安定させる必要がありました。
同年11月、頼朝は後白河法皇と対面し、朝廷との関係について協議します。
頼朝は権大納言や右近衛大将に任じられましたが、これらの官職は短期間で辞任しました。頼朝は朝廷で高い官職に就くことそのものよりも、鎌倉を拠点とした武士の支配を維持することを重視していたのです。
一方、後白河法皇も頼朝の軍事力を利用しながら、朝廷の政治や皇位継承に関わる権限を保ち続けました。後白河法皇と頼朝は、互いの権限をめぐって対立することもありましたが、最終的には協力関係を築くことで政治の安定を図るようになります。
こうして、京都の朝廷と鎌倉の武士たちが、それぞれ異なる役割を担いながら政治を進める関係が形づくられていきました。
三十三間堂の造営と今様文化
1164年、平清盛の協力で三十三間堂を建立する
後白河法皇は長年にわたって政治に関わる一方、仏教への信仰も深く、寺院の造営や仏事を積極的に行いました。その代表的な寺院が、京都の三十三間堂です。
長寛2年(1164年)、後白河上皇は平清盛の協力を得て、院御所である法住寺殿の一角に蓮華王院を建立しました。
蓮華王院は千体の観音菩薩像を祀る寺院で、後白河上皇の仏教信仰を表す重要な施設となりました。
当時、京都では浄土信仰や観音信仰が広まっており、多くの仏像を安置する寺院の造営は、亡くなった人々の供養や現世の安穏を願うものでもありました。
後白河上皇は平清盛の経済力を利用して大規模な寺院を建立し、仏教への信仰を示すとともに、院政を行う拠点である法住寺殿の整備も進めていきました。後白河上皇の時代に造営された蓮華王院は、その後も信仰の場として受け継がれ、現在の三十三間堂へとつながっています。
今様を学び、『梁塵秘抄』を編纂する
後白河法皇は、政治や仏教だけでなく、音楽や歌謡にも強い関心を持っていました。特に熱中したのが「今様(いまよう)」です。
今様とは、平安時代後期に流行した歌謡で、当時の人々の信仰や恋愛、暮らしなどを題材としていました。宮廷の貴族だけでなく、芸能を生業とする人々の間でも広く歌われており、和歌とは異なる形で親しまれていました。
後白河法皇は若い頃から今様を好み、さまざまな人々から歌を学びました。
特に知られているのが、五条尼乙前という女性です。乙前は今様に優れた人物として知られ、後白河は彼女から多くの歌や歌い方を学びました。
後白河はこうして習得した今様を後世へ伝えるため、『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』を編纂しました。『梁塵秘抄』は今様の歌詞を集めた書物であり、その伝承や歌い方を記した『梁塵秘抄口伝集』も作られました。
現存する部分には、仏教への信仰を歌ったものや、人々の生活を題材にした歌などが収められています。また、口伝集には後白河自身が今様をどのように学んできたのかについても記されており、歌謡への強い関心を知ることができます。
後白河法皇は、宮廷の人々だけでなく、芸能者たちからも歌を学び、その内容をまとめて後世へ残そうとしました。
1183年、『千載和歌集』の編纂を命じる
後白河法皇は今様だけでなく、宮廷の和歌文化にも関わっていました。寿永2年(1183年)、後白河法皇は歌人の藤原俊成に新たな勅撰和歌集の編纂を命じます。これが『千載和歌集(せんざいわかしゅう)』です。
勅撰和歌集とは、天皇や上皇の命によって優れた和歌を選び集めた歌集のことで、『千載和歌集』は『古今和歌集』から続く第七番目の勅撰和歌集にあたります。
編纂を任された藤原俊成は、過去の歌人から同時代の歌人まで幅広く作品を集め、その中から和歌を選定しました。
この編纂が命じられた1183年は、平氏が京都を離れ、源義仲が入京した年でもあります。後白河法皇は全国に戦乱が広がるなかで、政治への対応だけでなく、宮廷の和歌を後世へ伝える文化事業も進めていたのです。
『千載和歌集』はその後、文治4年(1188年)に完成しました。後白河法皇は今様を集めた『梁塵秘抄』に加え、勅撰和歌集の編纂も命じることで、当時の歌謡と宮廷和歌の双方を後世へ伝えることに関わりました。
後白河法皇の死と朝廷・鎌倉の関係
1192年、66歳で生涯を終える
建久3年(1192年)3月13日、後白河法皇は亡くなりました。後白河天皇は久寿2年(1155年)、近衛天皇の死後に即位し、保元の乱では崇徳上皇方を破って皇位を守りました。
その後、二条天皇へ譲位して院政を始めましたが、平治の乱では信西を失い、政治を進めるうえで平清盛の軍事力に依存するようになります。
後白河法皇は清盛と協力して高倉天皇の即位を実現させたものの、朝廷の官職や所領をめぐって対立し、1179年には清盛によって幽閉され、院政を停止されました。
その後、清盛の死によって院政を再開しましたが、1183年には源義仲によって法住寺殿を襲撃され、再び政治活動を制限されることになります。
しかし、頼朝の軍勢が義仲を破ると、後白河法皇は政治へ復帰し、今度は頼朝との交渉を通じて朝廷の権限を維持しようとしました。後白河法皇が亡くなった後も、朝廷と鎌倉の関係は続き、同年7月には頼朝が征夷大将軍に任じられました。
武士の台頭する時代に朝廷の政治を維持した天皇
後白河法皇が生きた12世紀後半は、平清盛や源頼朝など、武士たちが朝廷の政治に大きな影響を与えるようになった時代でした。
後白河法皇は保元の乱で平清盛や源義朝を用い、平治の乱の後も清盛との協力によって院政を進めました。しかし、平氏一門の勢力が強まると朝廷の人事や所領をめぐって対立し、清盛によって政治から排除されることになります。
さらに、平氏が都を離れた後には義仲との関係が悪化しましたが、今度は頼朝の軍勢を利用して政治の主導権を取り戻しました。
後白河法皇は、武士の軍事力を直接支配できたわけではありません。その一方、天皇の即位や官職の任命、土地の権利を認める朝廷の権限は依然として重要であり、清盛や頼朝にとっても朝廷との関係を無視することはできませんでした。後白河法皇は、そうした朝廷の権限を利用しながら、武士たちとの協力や交渉を繰り返したのです。
また、三十三間堂の造営や『梁塵秘抄』『千載和歌集』の編纂など、仏教や歌謡、和歌の分野にも大きな足跡を残しました。
後白河天皇は、保元・平治の乱から源平の争乱、鎌倉政権の成立へと続く時代に、平清盛や源頼朝との協力と対立を繰り返しながら、朝廷の政治を維持しようとした天皇・法皇です。 その生涯には、武士が政治の中心へ進出するなかで、朝廷と武家の関係が変化していく過程が表れています。


コメント