【日本史】崇徳天皇とは?保元の乱で讃岐へ流された生涯と怨霊伝承を解説

崇徳天皇の肖像を用いたアイキャッチ画像 平安時代

崇徳天皇(すとくてんのう)は、平安時代末期の天皇です。幼くして即位したものの、政治の中心には白河法皇や鳥羽上皇があり、退位後も自ら院政を行うことはできませんでした。保元の乱で弟の後白河天皇方に敗れ、讃岐へ流された生涯で知られています。

一方、崇徳天皇は『詞花和歌集』の編纂を命じた和歌の担い手でもありました。本記事では、皇位継承をめぐる立場の変化から保元の乱、配流後の暮らしと後世の怨霊伝承までを、史実と物語を分けながらたどります。

ひと目でわかる崇徳天皇

崇徳天皇は鳥羽天皇の第一皇子として生まれ、1123年に即位しました。近衛天皇への譲位後は上皇となりますが、政治の実権は鳥羽院が握り続けます。後白河天皇の即位と鳥羽法皇の死を経て保元の乱に加わり、敗戦後は讃岐で生涯を終えました。

  • 1119年、鳥羽天皇と藤原璋子の皇子として生まれる。
  • 1123年に即位し、白河法皇、続いて鳥羽上皇の院政のもとで在位する。
  • 1141年、異母弟の近衛天皇に皇位を譲る。
  • 1144年、藤原顕輔に『詞花和歌集』の編纂を命じる。
  • 1156年の保元の乱で藤原頼長らと後白河天皇方に対抗するが、敗れる。
  • 讃岐へ配流され、京都に戻らないまま1164年に亡くなる。
  • 死後には怨霊伝承が広がり、慰霊の対象として祀られる。

幼くして即位し、鳥羽上皇の院政下で育つ

1119年、鳥羽天皇の第一皇子として生まれる

崇徳天皇は元永2年(1119年)5月28日、鳥羽天皇と中宮・藤原璋子の第一皇子として生まれました。名は顕仁親王といい、母の璋子は後に待賢門院と呼ばれる人物です。

当時の朝廷では、鳥羽天皇の祖父にあたる白河法皇が院政を行っていました。院政とは、皇位を退いた上皇や法皇が、天皇に代わって政治を主導する仕組みのことです。白河法皇は天皇の交代や朝廷の人事にも強い影響力を持ち、鳥羽天皇もその意向を無視できない立場にありました。

保安4年(1123年)正月28日、白河法皇の意向によって鳥羽天皇が譲位すると、顕仁親王は数え年5歳で皇位を継ぎました。第75代崇徳天皇の即位です。

しかし、幼い崇徳天皇が自ら朝廷の政治を進めることはできず、白河法皇が引き続き政治を主導しました。摂政には藤原忠通が就き、朝廷では法皇と摂関家が協力しながら政務を行う体制が続きます。

こうして崇徳天皇は、白河法皇の院政のもとで天皇としての生活を始めました。

1129年、白河法皇の死後に鳥羽上皇が実権を握る

大治4年(1129年)7月7日、長年にわたって朝廷の政治を主導してきた白河法皇が亡くなりました。

白河法皇の死後、院政を始めたのは父の鳥羽上皇です。鳥羽上皇は白河法皇のもとで政治的な権限を制限されていましたが、法皇が亡くなったことで、朝廷の人事や皇位継承に自らの意思を反映させるようになりました。

一方、崇徳天皇は成長するにつれて、朝廷の政務にも関わるようになります。保延6年(1140年)には、公卿を集めて政治上の問題を審議させるなど、天皇自身が判断に参加したことを示す記録も残っています。

しかし、鳥羽上皇も引き続き政治の主導権を握っており、崇徳天皇が自ら政務に関わろうとすることは、父の院政との間に摩擦を生むことになりました。さらに鳥羽上皇は、藤原得子を寵愛するようになっていました。得子は後に美福門院と呼ばれる女性で、保延5年(1139年)には体仁親王を産んでいます。

鳥羽上皇はこの幼い皇子を次の天皇に立てようと考えるようになり、崇徳天皇の皇位継承にも大きな変化が訪れました。

1141年、異母弟の近衛天皇へ皇位を譲る

永治元年(1141年)12月7日、崇徳天皇は鳥羽上皇の意向によって譲位し、異母弟の体仁親王が新たな天皇となりました。第76代近衛天皇です。近衛天皇は3歳で、母は鳥羽上皇の寵愛を受ける美福門院でした。鳥羽上皇は自らが重用する美福門院の皇子を即位させることで、引き続き院政を主導する体制を整えたのです。

崇徳天皇は23歳で皇位を退き、上皇となりました。しかし、譲位したからといって、自ら院政を行えるようになったわけではありません。

当時、体仁親王は崇徳天皇の養子として扱われていたとする記録もありますが、実際の譲位では崇徳天皇の弟にあたる「皇太弟」として皇位を継ぐ形が取られました。これによって、崇徳上皇が新天皇の父として院政を主導する道は開かれず、鳥羽上皇が政治の実権を握り続けました。

崇徳上皇にとって、皇位を譲ることは自らの政治的な地位を高める機会にはならなかったのです。

上皇として和歌に力を注ぎ、皇位継承に希望を託す

歌会や百首歌を催し、宮廷の歌人たちと交流する

崇徳上皇は政治の主導権を握ることができなかった一方、和歌の世界では積極的に活動していました。

崇徳天皇は幼い頃から和歌に親しみ、在位中にも宮廷の歌人たちを集めて歌会や歌合を開いています。歌会は人々が和歌を詠み合う集まりで、歌合は左右の組に分かれて和歌の優劣を競う催しです。譲位後もこうした活動は続き、藤原忠通や藤原俊成、藤原顕輔ら、当時の優れた歌人たちが崇徳上皇のもとに集まりました。

特に知られているのが「久安百首」です。これは崇徳上皇が歌人たちにそれぞれ百首の和歌を詠ませたもので、久安6年(1150年)頃までにまとめられました。百首歌は、春夏秋冬や恋など、定められた題に従って多くの歌を詠む活動です。崇徳上皇は歌人たちに題を与え、その作品を集めることで、宮廷の和歌文化を発展させようとしました。

このように崇徳上皇は、自ら和歌を詠むだけでなく、多くの歌人を集めて作品を残す活動を進めていたのです。

1144年、『詞花和歌集』の編纂を命じる

天養元年(1144年)、崇徳上皇は歌人の藤原顕輔に新たな勅撰和歌集の編纂を命じました。これが『詞花和歌集(しかわかしゅう)』です。勅撰和歌集とは、天皇や上皇の命によって和歌を選び集めた歌集のことで、『詞花和歌集』は『古今和歌集』から続く第六番目の勅撰和歌集にあたります。

顕輔は過去の歌人から同時代の歌人まで、さまざまな作品を集めて選定を進め、仁平元年(1151年)に歌集を崇徳上皇へ奏覧しました。

しかし、崇徳上皇は提出された歌集をそのまま完成とはしませんでした。収録された歌の一部を削除させるなど、内容の見直しを求めたことが記録されています。こうした修正を経て、『詞花和歌集』は約400首を収める歌集としてまとめられました。

崇徳上皇は編纂を命じるだけでなく、どの歌を後世へ残すべきかという選定にも関わっていたのです。

崇徳上皇の和歌としては、『小倉百人一首』に収められた次の歌も広く知られています。

「瀬をはやみ 岩にせかるる滝川の われても末に 逢はむとぞ思ふ」

急流が岩によって二つに分かれても、その先で再び合流する様子を、離れた相手といつか再会したいという思いに重ねた恋の歌です。

この歌は後世、悲劇的な運命をたどった崇徳上皇の生涯と結びつけて受け止められることもありますが、もともとは恋を題材とする和歌です。配流後の心情を直接詠んだ歌として扱わないよう注意する必要があります。

1155年、近衛天皇の死後も皇子は即位できなかった

久寿2年(1155年)7月23日、近衛天皇が17歳で亡くなりました。近衛天皇には皇位を継ぐ皇子がいなかったため、朝廷では次の天皇を誰にするかが大きな問題となります。

崇徳上皇には重仁親王という皇子がいました。重仁親王は崇徳上皇の第一皇子であり、崇徳上皇にとっては、息子が皇位を継ぐことで自らの家系が再び政治の中心に立つ可能性がありました。

しかし、鳥羽法皇が選んだのは崇徳上皇の同母弟である雅仁親王でした。雅仁親王は第77代後白河天皇として即位します。

この皇位継承には、後白河天皇の皇子である守仁親王を将来の天皇に立てる構想が関わっていました。守仁親王は美福門院に養育されており、鳥羽法皇や美福門院が重視する皇位継承の流れに位置づけられていました。

崇徳上皇の重仁親王は後継者に選ばれず、崇徳上皇は自分の息子を通じて政治的な立場を回復する機会も失います。

こうして皇位継承をめぐる不満が深まるなか、朝廷では藤原忠通と弟の藤原頼長も、摂関家の継承をめぐって対立していました。天皇家と摂関家の双方に生じた対立は、翌年、鳥羽法皇が亡くなったことで武力衝突へと発展します。

保元の乱で後白河天皇に敗れる

1156年、鳥羽法皇の死後に藤原頼長と結びつく

保元元年(1156年)7月2日、鳥羽法皇が亡くなりました。鳥羽法皇は長年にわたって院政を主導してきた人物であり、その死によって朝廷の政治を支えていた権力関係が大きく変化します。

崇徳上皇は後白河天皇の政治に対抗する立場を取り、摂関家の継承をめぐって兄と争っていた藤原頼長と結びつきました。

頼長は左大臣を務めていましたが、近衛天皇の死後に鳥羽法皇の信任を失い、政治の中心から遠ざけられていました。崇徳上皇と頼長は、それぞれ皇位継承と摂関家の権限をめぐって不利な立場に置かれていたのです。

一方、後白河天皇の側には関白の藤原忠通がつき、さらに信西らも天皇方の政治を支えました。

両陣営の対立が激しくなると、それぞれが武士を集めるようになります。崇徳上皇のもとには源為義や源為朝、平忠正らが加わり、後白河天皇方には源義朝や平清盛らが集まりました。

この争いでは源氏と平氏がそれぞれ一つの陣営にまとまったわけではありません。源為義と源為朝は父子でありながら敵対し、平清盛と叔父の平忠正も別々の側につきました。崇徳上皇と後白河天皇をめぐる政治的な対立は、武士の一族をも分裂させる争いとなったのです。

7月11日、白河北殿で後白河天皇方と戦う

崇徳上皇は京都の白河北殿に入り、藤原頼長や源為義らとともに軍勢を集めました。白河北殿は白河の地にあった邸宅で、上皇方の軍事的な拠点となりました。一方、後白河天皇方は東三条殿を拠点とし、平清盛や源義朝らの軍勢を集めて攻撃の準備を進めます。

保元元年(1156年)7月11日の未明、後白河天皇方が白河北殿を攻撃しました。これが保元の乱です。

上皇方では源為朝らが抵抗しましたが、天皇方の攻撃を防ぎきれませんでした。白河北殿は焼かれ、崇徳上皇は拠点を失って逃れることになります。また、上皇方を支えていた頼長は戦いのなかで矢傷を負い、奈良へ逃れた後に亡くなりました。

崇徳上皇は軍勢を立て直すことができず、戦いはその日のうちに後白河天皇方の勝利で決着します。

この敗北によって、崇徳上皇は皇位継承をめぐる争いに決定的に敗れ、朝廷の政治へ復帰する可能性を失いました。

敗戦後に出家するも、讃岐への流罪が決まる

保元の乱で敗れた崇徳上皇は、京都の仁和寺へ逃れて出家しました。しかし、出家して政治から離れる姿勢を示しても、処罰を免れることはできませんでした。

同年7月23日、崇徳上皇は讃岐国への流罪を命じられます。讃岐国は現在の香川県にあたり、京都から遠く離れた四国の北部に位置していました。

天皇を経験した人物が流罪となるのは、平安時代には極めて異例のことでした。崇徳上皇は皇位を退いた後も都で暮らしていましたが、保元の乱に敗れたことで、その生活を失うことになります。一方、崇徳上皇に味方した源為義や平忠正らも処刑され、源為朝は伊豆大島へ流されました。

こうして崇徳上皇を支えた勢力は解体され、後白河天皇方が朝廷の政治を主導する体制が確立しました。崇徳上皇はその後、京都へ戻ることを許されず、讃岐で余生を過ごすことになります。

讃岐での配流生活と崇徳上皇の死

1156年、讃岐の松山に到着する

保元元年(1156年)8月10日、崇徳上皇は讃岐国の松山の津に到着しました。松山の津は現在の香川県坂出市周辺にあった港と考えられています。

崇徳上皇は当初、松山にある御堂などで過ごしたと伝えられています。その後、同じ地域の綾高遠の館に移り、この場所は後に「雲井御所」と呼ばれるようになりました。

保元3年(1158年)になると、崇徳上皇は讃岐国府に近い鼓岡へ移ったとされています。ここで暮らした場所は「木の丸殿」と呼ばれ、現在の坂出市府中町には、その跡地に関わる史跡が残されています。

京都では天皇として暮らし、譲位後も歌会や文化活動を行っていた崇徳上皇でしたが、讃岐では朝廷の政治に参加することも、自由に都へ戻ることもできませんでした。配流生活は長く続き、崇徳上皇は最期まで讃岐を離れることがありませんでした。

写経に励んだという伝承が残る

讃岐に流された崇徳上皇は、仏教への信仰を深め、写経に取り組んだと伝えられています。写経とは仏教の経典を書き写すことで、当時は仏への祈りや亡くなった人々の供養のために行われていました。

崇徳上皇については、讃岐で書き写した経典を京都へ送り、寺院へ納めてもらおうとしたものの、朝廷に拒まれたという話が伝わっています。

この出来事は、後に崇徳上皇の怨霊伝説と結びつくことになります。

崇徳上皇は配流後も都への帰還を望んでいたと伝えられていますが、その希望が認められることはありませんでした。

1164年、讃岐で46歳の生涯を閉じる

長寛2年(1164年)8月26日、崇徳上皇は讃岐の鼓岡で亡くなりました。保元の乱に敗れてから約8年が経過しており、崇徳上皇は京都へ戻ることなく生涯を終えたのです。

同年9月18日には、遺体が白峯山で火葬され、その地に陵が営まれたと伝えられています。

現在、香川県坂出市青海町にある白峯陵は、崇徳天皇の陵として宮内庁が管理しています。周辺には四国八十八箇所霊場の白峯寺もあり、崇徳上皇を供養する信仰が長く受け継がれてきました。

崇徳上皇は幼くして皇位に就き、長年にわたって鳥羽上皇の院政下で過ごしました。成人しても政治の主導権を得られず、譲位後には皇子・重仁親王の即位も実現しませんでした。そして保元の乱で後白河天皇方に敗れたことで、京都を離れて讃岐で亡くなるという結末を迎えたのです。

怨霊伝説と崇徳天皇を祀る信仰

保元物語で怨霊として描かれる

崇徳上皇は、死後に怨霊として恐れられた人物としても知られています。

平安時代には、不遇な死を遂げた人物の霊が災害や病気を引き起こすと考えられることがありました。特に、政治的な争いに敗れて処罰された人物は、強い恨みを残して亡くなったと受け止められることがあったのです。

崇徳上皇についても、讃岐で亡くなった後、朝廷で起こった災害や不幸がその怨霊と結びつけて語られるようになりました。

後に成立した『保元物語』では、崇徳上皇が都への恨みを募らせ、恐ろしい怨霊となる姿が描かれています。また、上田秋成の『雨月物語』に収められた「白峯」でも、西行法師が崇徳上皇の霊と出会う物語が語られました。こうした作品によって、崇徳上皇は日本史上の怨霊として広く知られるようになります。

しかし、怨霊が実際に災害を起こしたと確認できるわけではありません。これらは、政治的な争いに敗れた人物への恐れや、その霊を慰めようとする人々の信仰を伝えるものです。

また、崇徳上皇が最初から「崇徳院」と呼ばれていたわけでもありません。死後しばらくは配流先にちなみ「讃岐院」と呼ばれており、治承元年(1177年)に「崇徳院」の追号が贈られました。このように、崇徳上皇に対する評価や呼び名も、死後の時間の経過とともに変化していったのです。

1868年、京都に白峯宮が創建される

崇徳上皇を慰霊する信仰は、平安時代から近代に至るまで受け継がれました。

幕末には、孝明天皇が崇徳天皇の神霊を讃岐から京都へ迎え、慰霊するための神社を創建しようとしました。しかし、計画が完成する前に孝明天皇が亡くなったため、その意思は明治天皇へ引き継がれます。

慶応4年(1868年)、明治天皇は京都の飛鳥井家の邸宅跡に白峯宮を創建し、讃岐の白峯陵から崇徳天皇の神霊を迎えて祀りました。これが現在の白峯神宮です。

白峯神宮には、後に淳仁天皇も合祀されました。また、境内には飛鳥井家が祀っていた精大明神も祀られており、現在は球技やスポーツの守護神としても親しまれています。

皇位継承の争いと和歌に足跡を残した天皇

崇徳天皇は、白河法皇の意向によって5歳で即位しましたが、成長しても政治の主導権を握ることはできませんでした。

1141年には鳥羽上皇の意向によって近衛天皇へ譲位し、その後も院政を始められず、1155年の皇位継承では息子の重仁親王も後継者に選ばれませんでした。

翌1156年には藤原頼長らとともに後白河天皇方と戦いましたが、保元の乱に敗れて讃岐へ流され、その地で生涯を終えています。

一方、崇徳上皇は宮廷の和歌文化にも深く関わり、歌会や百首歌を催すだけでなく、『詞花和歌集』の編纂を命じて和歌の選定にも取り組みました。

崇徳天皇は、院政下の皇位継承争いに敗れて讃岐へ流された一方、歌人としても優れ、平安時代後期の和歌文化の発展に貢献した天皇です。 政治上の挫折と和歌の活動、そして死後に形成された怨霊信仰を分けて見ることで、その生涯をより深く理解することができます。

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