二宮尊徳(にのみやそんとく)は、江戸時代後期に家計や農村の立て直しに取り組んだ人物です。二宮金次郎の名でも知られ、薪を背負って本を読む少年像が有名ですが、成人後には小田原藩や幕府の仕事を担い、土地と人々の暮らしを再建する事業を進めました。
その方法は「報徳仕法」と呼ばれます。働くことや倹約を勧めるだけではなく、収入に見合う支出を定め、余力を田畑や用水路の整備へ回す仕組みでした。自分の家の再興から桜町領、日光神領の復興へと広がった生涯を見ていきます。
ひと目でわかる二宮尊徳
二宮尊徳は、自分の家の再興から出発し、家計や農村の立て直しを担った人物です。桜町領では収支を整え、余力を田畑や用水路の復旧へ回す報徳仕法を進めました。晩年は幕府のもとで日光神領の復興に取り組み、1856年の死後も息子や弟子が事業を受け継ぎます。
- 1787年に相模国栢山村の農家に生まれ、水害や両親の死を経て家の再興に取り組む。
- 小田原藩家老の服部家の家計を立て直し、藩主・大久保忠真に手腕を認められる。
- 1822年に桜町領の復興を命じられ、翌年に一家で現地へ移る。
- 収入に見合う支出を定め、余力を田畑や用水路の整備へ回す報徳仕法を進める。
- 桜町での成果をもとに他の村や領地の再建にも関わり、1842年に幕臣となる。
- 1853年に日光神領の復興に着手し、1855年には今市へ報徳役所を設ける。
- 1856年に今市で亡くなり、息子や弟子たちが復興の仕事を受け継ぐ。
水害で衰えた生家を立て直す
1787年、相模国栢山村の農家に生まれる
二宮尊徳は天明7年(1787年)、相模国足柄上郡栢山村(現在の神奈川県小田原市)に生まれました。父は二宮利右衛門、母はよしといい、幼い頃は金次郎と呼ばれていました。後に名乗った「尊徳」は本来「たかのり」と読みますが、現在では「そんとく」の呼び名で広く知られています。
二宮家は田畑を所有する比較的裕福な農家でした。しかし、寛政3年(1791年)に酒匂川が氾濫し、家が所有していた田畑の多くが流されてしまいます。酒匂川は現在の神奈川県西部を流れる川で、当時は洪水によって周辺の農地や村々がたびたび被害を受けていました。
田畑を失った二宮家では、収穫が減ったことで暮らしが苦しくなりました。父の利右衛門は荒れた田畑を元に戻そうとしましたが、復旧には費用も労働力も必要で、家計は次第に悪化していきます。
さらに寛政12年(1800年)には父が亡くなり、享和2年(1802年)には母も亡くなりました。まだ16歳だった金次郎は弟たちと離れて暮らすことになり、自身は伯父の万兵衛の家に引き取られます。
こうして、幼い頃には田畑を持つ農家の子として暮らしていた金次郎は、両親と生活を失い、親類のもとで働きながら生きていくことになったのです。
1803年、荒れ地を耕して収穫を得る
伯父の家に身を寄せた金次郎は、農作業などの仕事を手伝いながら暮らしました。その一方で、自分の力で収入を得るため、空いている土地を利用して作物を育てることにも取り組みます。
享和3年(1803年)には、道端などに捨てられていた稲の苗を集め、荒れ地や使われていない土地へ植えて育てたと伝えられています。そこから得られた収穫は米一俵ほどになり、わずかな苗でも大切に育てれば、生活を支える収入につながることを知りました。
また、油の原料となる菜種を栽培し、その収益を得ることもありました。金次郎はこうした農作業を重ね、少しずつ蓄えを増やしていきます。
この経験は、後に尊徳が説く「積小為大(せきしょういだい)」の考え方につながったとされています。積小為大とは、小さな努力や成果を積み重ねることで、大きな仕事を成し遂げるという意味です。
ただし、金次郎が実際に取り組んでいたのは、単に倹約してお金を貯めることだけではありませんでした。使われていない土地を耕し、収穫を得て、その利益を次の生産につなげることで、少しずつ経済的な基盤を整えていたのです。
1806年、田畑を買い戻して二宮家を再興する
文化3年(1806年)、20歳となった金次郎は伯父の家を離れ、生家の近くに小さな住まいを設けました。そして、それまでに蓄えた資金を使い、失われた二宮家の田畑を買い戻し始めます。
この年には約9畝の田を取り戻し、その後も農作業や貸付などによって得た収入を土地の取得に回しました。文化7年(1810年)には所有する田畑が1町4反余りにまで増え、二宮家は再び農業を営むための基盤を取り戻していきます。
金次郎は自ら働いて得た収入をすぐに使い切るのではなく、田畑を買い戻すために蓄え、そこから新たな収穫を得るという方法で家を再建しました。土地を増やせば翌年以降の収入も増えるため、少しずつ暮らしを安定させることができたのです。
こうした家の再建を通じて、金次郎は収入と支出を管理し、限られた資金をどのように使えば将来の利益につながるのかを経験から学んでいきました。そして、この経験が評価されたことで、やがて自分の家だけでなく、他人の家計や村全体の復興にも関わるようになります。
小田原藩の家老・服部家の財政を立て直す
服部家に仕え、1818年から家計の再建を進める
金次郎は文化年間、小田原藩の家老を務める服部家に若党として仕えるようになりました。若党は武家に仕えてさまざまな用務を担う者で、金次郎は服部家の子息の学問を助ける仕事などにも携わっています。
当時の服部家は家計の支出がかさみ、多くの借金を抱えていました。武士の収入は家禄などによって決められていましたが、家の格式を保つための出費も多く、収入を上回る支出が続けば借金が増えてしまいます。
金次郎は文化12年(1815年)には服部家の家計を立て直す計画をまとめ、文政元年(1818年)から本格的な家政整理を任されました。
まず取り組んだのは、毎年どの程度の収入があり、どこに費用が使われているのかを調べることでした。そのうえで支出を見直し、借金を返済するための計画を立てます。
ただし、必要な支出を一方的に削るだけでは、家臣や使用人の生活が成り立たなくなります。金次郎は服部家の人々にも家計の状況を理解してもらい、家全体で収支を改善するよう働きかけました。こうした取り組みによって服部家の財政は改善し、文政4年(1821年)には最初の家政整理を終えています。
五常講を始め、困窮する人々の暮らしを支える
服部家に仕えていた金次郎は、家の借金を減らすだけでなく、使用人たちが資金を融通し合う仕組みも考えました。それが文化11年(1814年)頃から試みられた「五常講(ごじょうこう)」です。
五常講は、仁・義・礼・智・信という儒教の五つの徳目をもとに、参加者が互いに助け合うための金融の仕組みでした。資金を必要とする人に貸し付け、借りた人は約束に従って返済することで、集めた資金を繰り返し利用できるようにしたのです。
金次郎は利子を付けない貸付などを通じて、生活に困っている人々が借金を重ねずに暮らしを立て直せるようにしました。五常講はその後、小田原藩士たちの間にも広がり、互いの信用と返済を重視する助け合いの制度として受け継がれていきます。
家計の再建と五常講には共通する考え方がありました。一度だけ資金を与えて困窮を解消するのではなく、収入と支出を整え、必要なときに資金を利用できる仕組みをつくることです。
こうした服部家での働きは、小田原藩主の大久保忠真にも認められました。金次郎は文政元年(1818年)にその功績を表彰され、やがて領地全体の復興という大きな仕事を任されることになります。
桜町領の復興を任され、報徳仕法を進める
1823年、家族とともに下野国桜町へ移住する
服部家の再建で成果を上げた金次郎は、小田原藩主・大久保忠真から新たな仕事を任されました。それが下野国桜町領の復興です。
桜町領は現在の栃木県真岡市周辺にあたる地域で、大久保家の分家である宇津家が領有する4,000石の知行地でした。しかし、長年の凶作や農地の荒廃、村の人口減少などによって年貢の収入が減り、領主の財政も苦しい状況にありました。
金次郎は文政4年(1821年)から桜町領の調査に関わり、翌文政5年(1822年)には名主役格として復興を命じられます。
そして文政6年(1823年)、金次郎は自らの田畑や家財を処分し、家族とともに桜町へ移住しました。生まれ育った小田原を離れ、現地に暮らしながら復興事業を進めることにしたのです。
金次郎が向かった桜町には、荒れた田畑や修理が必要な用水路がありました。また、年貢の負担や不作によって暮らしが苦しくなった農民も多く、領地を立て直すには農業と財政の両方を改善しなければなりませんでした。
金次郎はこれまで自分の家や服部家で取り組んできた収支の管理を、今度は複数の村を治める領地の運営に応用しようとしたのです。
分度を定め、領主の支出を収入に合わせる
桜町領の復興で金次郎が重視したのが、領地の収入に見合った支出の基準を定めることでした。
金次郎は過去の年貢収入などを調べ、毎年どの程度の収入が見込めるのかを確認しました。そのうえで宇津家が受け取る米や金に一定の基準を設け、収入をすべて領主の支出に充てるのではなく、復興のための資金を残せるようにします。
こうした考え方は「分度(ぶんど)」と呼ばれています。分度とは、収入や生産力を見極め、無理のない範囲で支出を決めることです。
当時の農村では、収穫が減っても領主へ納める年貢が重ければ、農民の手元には翌年の農業を続けるための資金が残りません。金次郎は領主側の収入と支出も見直すことで、農民が田畑を耕し続けられる条件を整えようとしました。
さらに、生まれた余力を将来や他人のために役立てることを「推譲(すいじょう)」と呼びます。例えば、収穫や収入に余裕ができたとき、そのすべてを消費するのではなく、農具の購入や用水路の修理、生活に困る人々への支援に回せば、次の年の生産や村全体の暮らしを支えることができます。
金次郎はこうした考え方をもとに、領主と農民の双方が無理なく暮らしを維持できるよう、桜町の財政を立て直そうとしました。
用水路や堰を修理し、荒れた田畑を再び耕す
金次郎は収支の改善だけでなく、農業そのものを立て直すための工事にも取り組みました。
桜町では田畑が荒れ、用水路や堰、橋なども修理が必要な状態になっていました。田に十分な水が届かなければ、農民が働いても収穫を増やすことはできません。そのため金次郎は、村人たちとともに水路や堰を整え、使われなくなった田畑を再び耕せるようにしていきます。
こうした工事には資金だけでなく、多くの人手が必要でした。金次郎は村人に協力を求め、自らも作業に関わりながら、農業を続けられる環境を整えようとしました。
また、努力して耕作に取り組む農民を表彰したり、生活が苦しい人々に資金を貸し付けたりすることもありました。農地を整えるだけでなく、村人が農業を続ける意欲を持ち、暮らしを改善できるようにすることも復興の一部だったのです。
こうして金次郎は、領主の財政を見直す取り組みと、農業の生産力を回復させる取り組みを並行して進めました。単に年貢の徴収額を増やすのではなく、村人が暮らしを立て直し、継続して農業を営めるようにすることが、桜町の復興につながっていきました。
1829年、復興事業が行き詰まり成田山に参籠する
桜町の復興は、初めから順調に進んだわけではありませんでした。
文政10年(1827年)頃になると、村役人たちの間で金次郎の方針に反発する動きが起こり、辞任を申し出る者も現れました。また、復興事業に関わる役人の豊田正作が赴任したことで、現地の運営をめぐる対立はいっそう深まります。
金次郎は農地の復旧や財政の立て直しを進めていましたが、村人や役人たちが同じ方針で協力しなければ、事業を続けることはできませんでした。
文政11年(1828年)には金次郎自身も辞任を願い出ましたが、受け入れられませんでした。復興を任されていながら、現地で十分な協力を得られず、事業を進めることが難しくなっていたのです。
翌文政12年(1829年)、金次郎は千葉県成田市にある成田山新勝寺に参籠しました。参籠とは、寺社に一定期間こもり、祈りを捧げながら過ごすことです。金次郎は断食して祈願し、今後の復興について考えたと伝えられています。
桜町へ戻った後、事業をめぐる対立は次第に収まり、復興は再び進むようになりました。
1831年、桜町領の第一期復興を成し遂げる
天保2年(1831年)、金次郎は桜町領で進めてきた第一期の復興事業を終えました。
文政6年(1823年)に家族とともに移住してから約8年が経過しており、その間には農地の改修や用水路の整備だけでなく、領主の財政や村人の生活をめぐるさまざまな問題に取り組んできました。
金次郎は復興の成果を小田原藩主・大久保忠真へ報告し、その功績を認められました。忠真は金次郎の働きを高く評価し、「以徳報徳」という言葉でその功績をたたえたと伝えられています。
もっとも、第一期の事業が終わったからといって、桜町の復興がそこで完全に終了したわけではありません。農地や村の暮らしを維持するためには、その後も工事や財政の管理を続ける必要がありました。
金次郎は桜町で得た経験をもとに、次第に周辺の村や領地からも復興の相談を受けるようになります。
報徳仕法を広め、幕府に仕える
天保の飢饉で困窮する人々を救済する
天保年間に入ると、金次郎の活動は桜町だけでなく、北関東の村々へ広がっていきました。
天保4年(1833年)には常陸国青木村(現在の茨城県桜川市)の復興に取り組み、翌年には『三才報徳金毛録』をまとめるなど、農村を立て直す方法の整理も進めています。
さらに天保6年(1835年)には下野国茂木領で復興事業を始め、天保7年(1836年)には烏山藩の飢饉救済にも関わりました。
この頃、日本各地では天保の飢饉によって凶作が続き、農村では食料不足に苦しむ人々が増えていました。十分な収穫を得られなければ、農民は食料を失うだけでなく、翌年の農業に必要な種籾や資金も確保できなくなってしまいます。
金次郎は困窮する人々への食料や資金の支援に加え、農業を再開できるようにするための取り組みを進めました。
こうした活動では、目の前の飢えをしのぐことと、その後も生活を続けられるようにすることの両方が求められました。金次郎はこれまでの家計や農村の再建で培った方法を使い、凶作で苦しむ村々の立て直しに取り組んでいったのです。
至誠・勤労・分度・推譲をもとに報徳仕法を進める
金次郎が各地で実践した農村復興の方法は、後に「報徳仕法(ほうとくしほう)」と呼ばれるようになりました。報徳仕法は、勤勉に働くことだけを求める教えではありません。地域の土地や収入を調べ、支出に基準を設け、そこで生まれた余力を農業の再建や人々の生活に役立てる、具体的な復興の方法でした。
この考え方は、一般に「至誠・勤労・分度・推譲」の四つの言葉で説明されます。
至誠とは、誠実な心で人や仕事に向き合うことです。勤労は、ただ長時間働くのではなく、自分の力を生かして生産や社会の役に立つことを重んじます。
分度は収入や生産力に見合った支出を定めることで、推譲はそこから生まれた余力を将来や他人のために役立てることです。
金次郎はこれらの考え方を、村の実際の収穫や財政状況に合わせて用いました。土地の広さや農業の条件が違えば、必要な工事や支出の基準も変わるため、どの村にも同じ計画をそのまま当てはめたわけではありません。
桜町での復興を通じて確立した方法は、各地の実情に合わせて応用され、農村や領地の立て直しに使われるようになりました。
1842年、幕臣に取り立てられる
天保13年(1842年)、金次郎は江戸幕府の幕臣に取り立てられました。
相模国の農家に生まれ、少年時代には両親と田畑を失った金次郎でしたが、家の再建から始めた仕事が小田原藩に認められ、さらに幕府の事業を担う立場にまで進んだのです。
また、この頃から実名を尊徳と名乗るようになります。幕臣となった尊徳は、これまでの農村復興の経験をもとに、幕府の領地に関わる調査や計画にも取り組むようになりました。
弘化元年(1844年)には、日光神領の復興に向けた計画書の作成を命じられます。尊徳は村々の収入や農地の状況を調べ、復興に必要な資金や工事の内容を検討しました。
その成果は弘化3年(1846年)に『日光仕法雛形』としてまとめられ、全60冊の計画書が幕府へ提出されました。
しかし、計画をまとめたからといって、すぐに事業が始まったわけではありません。資金を確保し、現地の役人や村人たちとの調整を進める必要があり、尊徳が実際に日光神領の復興を始めるまでには、さらに年月がかかることになります。
日光神領の復興と二宮尊徳の最期
1853年、日光神領の復興に着手する
嘉永6年(1853年)、尊徳は日光奉行手付に任じられ、日光神領の復興事業に着手しました。
日光神領とは、日光東照宮や輪王寺などに関わる寺社領で、現在の日光市域の広い範囲にあたります。寺社の領地であっても、そこには多くの村々があり、農民たちは田畑を耕して年貢を納めながら暮らしていました。
しかし、日光神領でも農地の荒廃や村の財政の悪化が進み、従来の方法では十分な収入を確保できなくなっていました。尊徳は幕府から復興を任され、これまで各地で進めてきた報徳仕法を日光でも実践することになります。
尊徳は農地や用水路の状況を調べ、村々の収入に見合った支出を定めながら、農業を再開するための資金を確保しようとしました。
また、日光神領には多くの村が含まれていたため、現地の役人や農民たちの協力も必要でした。尊徳は村々を巡って状況を確認し、復興に必要な工事や資金の貸付などを進めていきます。
このとき尊徳はすでに60代後半を迎えていましたが、各地で培ってきた経験を生かし、晩年まで農村の復興に取り組み続けていました。
1855年、今市に報徳役所を設ける
安政2年(1855年)、尊徳は日光神領の復興を進めるため、下野国今市(現在の栃木県日光市)に報徳役所を設けました。
この役所は、日光神領で行う復興事業の拠点であり、資金や工事の管理、村々の調査記録などを扱う場所でした。また、尊徳自身の住まいとしても使われ、尊徳はここで家族や弟子たちとともに暮らすようになります。
日光神領の復興では、農地や用水路の整備だけでなく、事業を長く続けるための記録や資金の管理も重要でした。
尊徳はこれまで桜町や北関東各地で行ってきた復興の方法を日光でも取り入れ、村々の生産力を回復させようとしました。
ただし、尊徳はこの頃から病を患うようになり、事業のすべてを自ら進めることが難しくなっていきます。それでも日光での復興は継続され、尊徳を支える人々が仕事を引き継いでいくことになります。
1856年、今市の報徳役所で70歳の生涯を終える
安政3年(1856年)10月20日、二宮尊徳は今市の報徳役所で亡くなりました。
尊徳は天明7年(1787年)に相模国の農家に生まれ、幼い頃に酒匂川の洪水で家の田畑を失いました。さらに両親を相次いで亡くし、伯父の家に身を寄せながら働いて暮らすようになります。
しかし、荒れ地で作物を育て、得られた収入を蓄えて田畑を買い戻すことで、生家を再建しました。その経験をもとに小田原藩の家老・服部家の財政を立て直し、さらに桜町領の復興を任されるようになります。
桜町では領主の財政と農民の生活を見直し、用水路や農地の整備を進めながら、村が農業を続けられる仕組みを整えました。その方法は報徳仕法として各地へ広まり、尊徳は幕臣に取り立てられてからも日光神領の復興に取り組んでいます。
尊徳の死後、日光神領の復興事業は息子の二宮尊行(弥太郎)に引き継がれました。また、弟子の富田高慶らも各地で報徳仕法を広め、尊徳の考え方を後世へ伝えていきます。
二宮金次郎の銅像と、実際に進めた農村復興

二宮尊徳といえば、薪を背負いながら本を読む少年の銅像を思い浮かべる人も多いでしょう。
この姿は、幼い頃から勉学に励み、働くことを大切にした人物として尊徳を伝えるものです。しかし、尊徳の生涯で大きな割合を占めるのは、成人後に取り組んだ家計の再建や農村の復興でした。
尊徳は自分の家を立て直す過程で、限られた土地や資金をどのように使えば、継続して収入を得られるようになるかを考えました。その経験を服部家の家計整理に応用し、さらに桜町領や日光神領では、農民の暮らしと領主の財政の両方を立て直そうとしました。
また、尊徳の仕法は精神論だけで成り立っていたわけではありません。田畑の面積や収穫量、年貢の収入、工事に必要な費用などを調べ、その土地に適した復興計画を立てるという具体的な仕事に支えられていました。
二宮尊徳は、洪水で衰えた生家を自らの働きで再建し、その経験をもとに農村の財政と生産力を立て直す報徳仕法を広めた人物です。 少年時代の勤勉さだけでなく、実際にどのような方法で人々の暮らしを支えたのかを見ることで、その生涯をより深く理解することができます。


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