【日本史】藤原時平とは?菅原道真との対立と昌泰の変、延喜の政治改革を解説

平安時代

藤原時平(ふじわらのときひら)は、平安時代前期に左大臣を務め、醍醐天皇の政治を支えた貴族です。菅原道真を大宰府へ左遷した昌泰の変で知られますが、荘園の整理や法令の編纂にも取り組みました。

道真の敵役という印象だけでは、時平が朝廷で何を担ったのかは見えてきません。藤原基経の後継者としての歩み、道真との対立、延喜の政治改革をたどり、後世の物語に描かれた姿と分けて考えていきます。

ひと目でわかる藤原時平

藤原時平は、関白・藤原基経の長男として生まれ、899年に左大臣となりました。右大臣の菅原道真とともに醍醐天皇を補佐しましたが、901年の昌泰の変で道真を失脚に追い込みます。その後は荘園整理や『延喜式』の編纂を進め、909年に亡くなりました。

  • 藤原基経の長男として生まれ、宇多・醍醐両天皇のもとで昇進する。
  • 899年に左大臣となり、右大臣の菅原道真とともに政務を担う。
  • 901年の昌泰の変で道真を失脚させ、朝廷での主導権を強める。
  • 荘園整理令や法令の編纂を通じて、朝廷の土地・税の制度を立て直そうとする。
  • 909年に没し、後世には道真の怨霊伝説や芝居の敵役と結びつけられる。

藤原基経の長男として朝廷の要職へ進む

871年、摂関家の長男として生まれる

藤原時平は貞観13年(871年)、摂政・関白として朝廷の政治を主導した藤原基経の長男として生まれました。母は仁明天皇の皇子・人康親王の娘であり、時平は父方では藤原北家、母方では皇族につながる家柄でした。

父の基経は、陽成天皇の退位後に光孝天皇を擁立し、さらに宇多天皇のもとでも関白として政治に関わった人物です。時平はこうした父の地位を背景に、幼い頃から朝廷の要職に進むことを期待されていました。

仁和2年(886年)、時平は16歳で元服します。この儀式では光孝天皇が自ら冠をかぶせる加冠の役を務め、時平は正五位下に叙せられました。天皇が直接元服の儀式に関わったことは、時平が朝廷で特別に重んじられていたことを示しています。

翌仁和3年(887年)には左近衛中将や蔵人頭となり、天皇の身近で政務に関わるようになりました。時平は父の権勢を受け継ぐ立場にありましたが、その後は自らも官職を重ね、朝廷の政治を担う人物へと成長していきます。

891年、父・基経の死後も昇進を続ける

寛平3年(891年)、父の基経が亡くなると、宇多天皇は新たな関白を置かずに政治を進めるようになりました。時平は父の官職をそのまま継いだわけではありませんでしたが、同年に参議となり、翌寛平4年(892年)には権中納言へ昇進します。

参議や中納言は、朝廷の重要な政治問題を審議する公卿の役職です。時平はこうした地位を通じて政務に参加し、父の死後も藤原北家の有力者として活動を続けました。

一方、宇多天皇が重用していたのが、学者の家に生まれた菅原道真でした。道真は文章博士などを務めた後、宇多天皇の信任によって急速に昇進し、それまで藤原氏や源氏などの有力貴族が占めていた朝廷の高官にまで進んでいました。

寛平9年(897年)には時平が大納言となり、道真も権大納言へ昇進します。同年、宇多天皇が醍醐天皇へ譲位すると、二人は若い新天皇を支える重要な役割を与えられました。

時平は藤原北家の後継者として、道真は宇多天皇の信任を受けた学者出身の公卿として、それぞれ異なる背景を持ちながら朝廷の政治を担うことになったのです。

左大臣への就任と菅原道真の失脚

899年、左大臣となり道真と政務を担う

昌泰2年(899年)、時平は左大臣に任じられました。同じ年には菅原道真も右大臣となり、二人は太政官の中心として醍醐天皇を補佐する立場となります。

当時の太政官では左大臣が右大臣より上位に位置していましたが、道真には宇多上皇からの厚い信任がありました。宇多上皇は譲位後も道真を重用するよう醍醐天皇に求めており、時平にとって道真は無視できない存在でした。

また、道真の急速な昇進には、朝廷の有力貴族たちから反発する声もありました。道真は菅原氏という学者の家に生まれながら右大臣にまで昇進しており、従来の家格を重視する貴族たちにとって、その人事は異例だったためです。

藤原北家の勢力を維持しようとする時平と、宇多上皇の信任を受けて政治に関わる道真の間には、朝廷の主導権や皇位継承をめぐる問題が重なっていました。こうした対立は昌泰4年(901年)、道真の突然の左遷によって決着することになります。

901年、昌泰の変で菅原道真を大宰府へ左遷する

昌泰4年(901年)正月、時平らは菅原道真が醍醐天皇を退位させ、斉世親王を新たな天皇に立てようとしていると訴えました。

斉世親王は醍醐天皇の異母弟で、道真の娘を妻に迎えていました。もし斉世親王が天皇となれば、道真は天皇の妻の父として、朝廷でさらに大きな影響力を持つ可能性がありました。この訴えを受けた醍醐天皇は、道真を右大臣から解任し、大宰権帥として九州の大宰府へ左遷することを決めます。これが昌泰の変です。

道真の左遷を知った宇多上皇は処分を止めようとしましたが、醍醐天皇に会うことができず、決定を覆せませんでした。道真は都を離れ、大宰府での生活を余儀なくされた末、延喜3年(903年)に亡くなります。

道真が朝廷から排除されたことで、時平は醍醐天皇のもとで政治を主導する立場を強めました。しかし、時平の活動は道真との政争だけにとどまりませんでした。翌年からは、土地の支配や税の徴収をめぐる制度の見直しにも取り組んでいきます。

荘園整理令と律令制度の立て直し

902年、荘園整理令で貴族や寺社の土地取得を規制する

延喜2年(902年)3月、時平が左大臣を務める朝廷は、土地の私的な支配を制限するため、一連の法令を出しました。その中心となったのが、後に「延喜の荘園整理令」と呼ばれる命令です。

当時の地方では、有力な貴族や寺社が農民の土地を買い取ったり、荒れ地を占有したりすることで、私的な土地支配を広げていました。こうした動きが進むと、国司が税を徴収する土地や、朝廷の管理が及ぶ土地が減少するおそれがありました。

そこで時平らは、皇族や高位の貴族が農民の田畑や住居を買い取ること、未開墾地や荒れ地を新たに占有することなどを禁じました。さらに、農民が有力者に土地を差し出して私的な保護を受けようとする動きにも規制を加え、国司には違反を取り締まるよう求めています。

ただし、以前から認められていた荘園まで、すべて取り上げようとしたわけではありません。土地の権利を示す文書があり、地方行政に支障をきたしていない荘園については、その存在が認められる場合もありました。

班田収授を励行し、税を集める仕組みを維持する

荘園整理令とともに、時平の時代には班田収授の制度を維持するための命令も出されました。班田収授とは、戸籍などに基づいて人々へ田を配分し、その土地から租税を徴収する仕組みです。律令国家ではこの制度によって土地と人々を把握し、朝廷の財政を支えてきました。

しかし、平安時代に入ると、地方では人口の移動や土地の私的な支配が進み、戸籍に基づく土地の配分を従来どおりに行うことが難しくなっていました。さらに、国司による税の徴収にも問題が生じ、朝廷が地方の土地や収入を十分に把握できない状況が広がっていました。

延喜2年(902年)の政策では、班田を励行することに加え、国司の交替や租税の徴収に関する規定も整えられました。時平らは土地制度と地方行政の両方を見直すことで、朝廷の収入を確保しようとしたのです。

歴史書と法令の編纂を進める

901年、『日本三代実録』を完成させる

時平は土地制度の改革だけでなく、朝廷の歴史や法令を整理する事業にも関わりました。その代表的なものが、延喜元年(901年)8月に完成した『日本三代実録』です。

『日本三代実録』は、清和・陽成・光孝の三代の天皇について、その治世に起こった出来事を年代順に記した歴史書です。天安2年(858年)から仁和3年(887年)までの約29年間を全50巻にまとめており、朝廷が編纂した六国史の最後にあたります。

この事業は宇多天皇の命によって始まり、時平のほか、源能有や菅原道真らも編纂に関わりました。しかし、作業の途中で源能有が亡くなり、完成した延喜元年には道真も大宰府へ左遷されています。

時平はこうした政治的な変化のなかで編纂を進め、醍醐天皇の時代に歴史書を完成させました。

『日本三代実録』には、天皇や公卿の活動だけでなく、朝廷が出した命令や地方の災害、神社への神階授与なども記されています。そのため、現在でも平安時代の政治や神社の歴史を調べるうえで、重要な史料となっています。

905年、『延喜式』の編纂を始める

延喜5年(905年)、醍醐天皇は時平らに命じて『延喜式』の編纂を始めさせました。

「式」とは、律令やその後に定められた法令を実際に運用するための細かな規則です。当時の朝廷では、弘仁年間や貞観年間に編纂された規定が使われていましたが、長い年月の間に新たな命令が加えられ、役所の仕事や儀式の進め方を整理する必要が生じていました。

そこで時平らは、それまでの規定を見直し、朝廷の行政や儀式に必要な決まりをまとめる作業に取り組みます。『延喜式』には神社で行う祭祀や役所の業務、地方から納められる産物など、朝廷の政治に関わる幅広い内容が収められることになりました。

特に知られているのが、全国の神社を記した「延喜式神名帳」です。ここに記載された神社は現在「式内社」と呼ばれ、古代の神社の歴史を調べる際の重要な手がかりとなっています。

ただし、時平が『延喜式』を完成させたわけではありません。時平が亡くなった後も弟の藤原忠平らによって編纂が続けられ、延長5年(927年)に完成しました。実際に施行されたのは康保4年(967年)であり、編纂開始から60年以上が経過していました。

時平は完成を見届けられませんでしたが、後世の朝廷でも長く用いられる法令集の編纂を始めた人物の一人でした。

藤原時平の死と後世の評価

909年、39歳で亡くなる

延喜9年(909年)4月4日、時平は39歳で亡くなりました。父の基経が亡くなってから18年、左大臣に就任してから10年後のことでした。

時平は父の権勢を背景に若くして昇進し、宇多天皇のもとでは菅原道真とともに朝廷の政治を担いました。その後、醍醐天皇の時代に左大臣となり、昌泰の変で道真を失脚させた後は、政治の中心として土地制度の改革や法令の編纂を進めています。

しかし、39歳という若さで亡くなったため、『延喜式』をはじめとする事業の完成を見ることはできませんでした。時平の死後、朝廷では弟の藤原忠平が勢力を伸ばし、やがて摂政・関白として政治を担うようになります。

時平にも子どもたちがいましたが、後の摂関家の中心となったのは忠平の子孫でした。時平は生前に摂政・関白へ就任することはなく、死後に正一位・太政大臣を追贈されています。

菅原道真の怨霊伝説で敵役として語られる

時平が亡くなった後、その死は菅原道真の怨霊と結びつけて語られるようになりました。

道真は延喜3年(903年)に大宰府で亡くなっていましたが、その後も朝廷では病死や災害が相次ぎ、道真の無念が祟りとなって現れたと恐れられるようになります。時平が道真の死から6年後に亡くなったことも、こうした怨霊伝説のなかで語られました。

また、時平は江戸時代の人形浄瑠璃や歌舞伎『菅原伝授手習鑑』にも登場します。この作品では皇位を狙う敵役として描かれ、「公家悪」と呼ばれる悪役の代表的な人物となりました。

そのため、時平には道真を陥れた人物という印象が強く残っています。しかし、舞台作品で描かれる時平と、実際に朝廷で政治を行った時平は区別する必要があります。

醍醐天皇のもとで進めた政治と残した事業

藤原時平は、菅原道真を失脚させた政治家として知られていますが、その活動は昌泰の変だけではありませんでした。

延喜2年(902年)には土地の私的な支配を制限する荘園整理令を出し、班田の励行や地方行政の見直しを進めました。こうした政策は、土地の所有や税の徴収が変化するなかで、朝廷の財政と行政を維持しようとするものでした。

また、『日本三代実録』の完成や『延喜式』の編纂にも関わり、朝廷の歴史や法令を後世へ伝えるための仕事を進めています。

藤原時平は、菅原道真を失脚させて朝廷の主導権を握る一方、荘園整理令や歴史書・法令の編纂を通じて、平安時代前期の政治を支えた左大臣でした。

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