【日本史】細川持之とは?足利義教を補佐し、嘉吉の変と徳政一揆に向き合った管領

室町時代

細川持之(ほそかわもちゆき)は、室町幕府の将軍・足利義教を補佐した管領です。1441年、義教が赤松氏の屋敷で殺害された嘉吉の変に居合わせながら生き残り、幼い後継者を支えて幕府の立て直しにあたりました。

応仁の乱で知られる細川勝元の父でもありますが、持之自身が直面したのは、その約四半世紀前の危機でした。将軍の命令を地方へ伝える仕事から、将軍暗殺後の対応、徳政を求める一揆との対峙まで、その生涯をたどります。

ひと目でわかる細川持之

持之は1400年に生まれ、1429年に兄の持元を継いで細川本家の当主となりました。1432年から管領を務め、義教の政権を支えます。義教の急死後は、その後継者である義勝を補佐しましたが、自身も翌1442年に亡くなり、家督は勝元へ移りました。

  • 細川満元の子として生まれ、1429年に兄・持元の跡を継ぐ。
  • 1432年に管領となり、足利義教のもとで幕府の政務や軍事に関わる。
  • 1441年の嘉吉の変では将軍暗殺の現場から脱出する。
  • 幼い足利義勝を支え、赤松氏の討伐と徳政一揆への対応を迫られる。
  • 1442年に亡くなり、子の細川勝元が家督を継ぐ。

兄の死によって細川京兆家の当主となる

1429年、兄・持元の跡を継ぐ

細川持之は応永7年(1400年)、室町幕府の管領を務めた細川満元の子として生まれました。細川氏は足利氏の一族で、各地に守護職を持つ有力な武家でしたが、その本家にあたる家系は京兆家と呼ばれ、幕府の政治で大きな影響力を持っていました。

京兆家という名前は、歴代当主が名乗った右京大夫という官職の中国風の呼び名「京兆」に由来します。この家は摂津・丹波・讃岐・土佐などの守護職を受け継いでおり、持之の父・満元も将軍を補佐する管領として活動していました。

満元の死後、京兆家を継いだのは持之の兄・細川持元でした。しかし、持元は永享元年(1429年)7月に亡くなったため、弟の持之が30歳で家督を継ぐことになります。

持之が受け継いだのは、細川氏の当主としての地位だけではありません。京都で幕府の政治に関わる立場に加え、摂津や丹波、四国に広がる守護職と、その支配を担う家臣たちも引き継ぎました。各地の守護代や有力家臣は、それぞれが土地や軍事力を持っていたため、持之は彼らとの関係を保ちながら、広い領国を治めていく必要がありました。

讃岐の寺社領をめぐって守護代に命令を出す

京兆家を継いだ持之は、領国内の土地や寺社をめぐる問題にも対応しました。特に讃岐では香川氏や香西氏などの有力武士が守護代やその家臣として活動しており、持之は京都から彼らに命令を出すことで領国の支配を進めています。

永享2年(1430年)12月25日、持之は讃岐の善通寺に対し、田所職と得一名を返還するよう守護代の香川下野入道へ命じました。田所職とは荘園や寺社領の管理に関わる役職で、得一名も寺院の所領に関する権利でした。

この命令は、善通寺が持つ土地の権利を確認し、守護方の管理下にあった所領を寺院へ戻すためのものでした。持之は守護代を通じて土地の管理に関わる一方、寺院側が持つ権利についても対応していたのです。

翌永享3年(1431年)には、讃岐国坂田郷をめぐって新たな問題が起こります。坂田郷は神護寺の所領でしたが、代官を務めていた香西元資が解任され、寺院側による直接の管理が認められました。

しかし、坂田郷では以前から細川氏の家臣が代官を務めており、持之にとっても簡単に受け入れられる決定ではありませんでした。そこで持之は11月28日、醍醐寺三宝院の満済に取りなしを求め、守護方の家臣が引き続き代官を務められるよう働きかけます。

この結果、12月10日には将軍・足利義教が、問題となった香西元資本人を除くことを条件に、細川氏の家臣による代官請負を認めました。

足利義教のもとで管領として活動する

1432年、室町幕府の管領に就任する

永享4年(1432年)、持之は斯波義淳に代わって室町幕府の管領となりました。管領は将軍を補佐し、諸大名との連絡や政務の調整を担う役職で、細川・斯波・畠山の三家から任じられることが通例となっていました。

当時の将軍は足利義教です。義教は将軍自身の権限を強めようとしており、守護大名の家督争いや領国の問題にも積極的に介入していました。そのため、持之は将軍の方針を諸大名へ伝える一方、有力守護たちの意見を調整する役割を担うことになります。

もっとも、義教の時代には将軍が訴訟や軍事の問題を直接判断する機会が増えており、管領を通じて諸大名の意見をまとめる従来の仕組みも変化していました。

持之も義教の判断に従うだけではなく、各地の武士や寺社からの訴えに対応しながら政務を進めました。しかし、将軍が家臣の人事にまで介入する場面もあり、守護としての権限と将軍の命令との間で調整を迫られることになります。

管領奉書を通じて将軍の命令を伝える

持之が管領として担った重要な仕事の一つが、将軍の命令を文書で各地へ伝えることでした。

当時の室町幕府では、将軍の意向を受けて管領が「奉書」と呼ばれる文書を発給することがありました。奉書は、上位者の命令をその意向に従って伝える文書で、守護や家臣に対して具体的な対応を求めるために使われました。

持之の時代には、土地をめぐる訴訟だけでなく、軍事活動に関わる管領奉書も発給されています。例えば将軍の命令によって軍勢を動かした武士に対し、戦功を認めたり、恩賞に関する指示を伝えたりする際にも、管領の文書が用いられました。

現存する文書の一つが、嘉吉元年(1441年)の「室町幕府管領細川持之施行状」です。この文書では、東寺の造営費用に充てられた山城国東西九条の地頭職について、持之が京極持清へ命令を伝えています。

永享の乱・結城合戦への対応を担う

持之が管領を務めていた時期には、関東でも大きな戦いが起こりました。

永享10年(1438年)、将軍・義教と鎌倉公方の足利持氏の対立が激しくなり、永享の乱が始まります。鎌倉公方は関東を統治する足利氏の一族でしたが、持氏は将軍との関係を悪化させ、ついに幕府軍との戦いへ発展しました。

幕府は関東管領の上杉憲実を支援し、駿河の今川氏などにも軍事的な協力を求めました。持之は管領として、こうした軍事活動に関わる幕府の政務を担いました。

永享11年(1439年)に持氏が敗死すると、その翌年には持氏の遺児を擁立した結城氏朝らが下総で挙兵します。これが結城合戦で、幕府は再び関東へ討伐軍を派遣しました。

持之は義教のもとで関東への軍事対応を支えましたが、こうした戦いが続くなか、将軍の政治に対する諸大名の不満も高まっていきました。そして嘉吉元年(1441年)、持之は幕府の政治を根底から揺るがす事件に直面することになります。

嘉吉の変と将軍暗殺後の幕府運営

1441年、赤松氏の屋敷で足利義教が殺害される

嘉吉元年(1441年)6月24日、持之は将軍・義教に従い、京都にある赤松氏の屋敷を訪れました。この日は結城合戦の勝利を祝う宴が開かれており、持之のほかにも山名持豊や大内持世、京極高数ら有力な武将や公家たちが招かれていました。

ところが、猿楽や酒宴が行われている最中、赤松方の武士たちが突然屋敷に乱入し、義教を襲撃します。義教はその場で殺害され、宴席にいた人々も逃げ惑うなかで、京極高数らが討死し、大内持世も重傷を負いました。持之はこの襲撃から逃れ、命を取り留めています。

将軍を殺害したのは、播磨守護の赤松満祐とその子・教康らの勢力でした。義教による守護大名への厳しい処分が続くなか、赤松氏も家督や領国をめぐって将軍との関係を悪化させており、ついに義教を殺害するという行動に出たのです。この事件は嘉吉の変と呼ばれています。

将軍を突然失った幕府では、赤松氏をどう討伐するかだけでなく、次の将軍を誰にするかという問題も生じました。管領だった持之は、事件の直後から諸大名をまとめ、幕府の政治を立て直すために動き始めます。

翌日に諸大名を集め、赤松氏の追討を決める

嘉吉の変の翌6月25日、持之は幕府の有力大名たちを集め、今後の対応を協議しました。将軍を殺害した赤松満祐はすでに京都を離れ、本拠の播磨へ戻っていました。幕府が満祐を討伐するためには、赤松氏と隣接する領国を持つ大名や、各地の武士たちを動員しなければなりません。

持之らは赤松氏の追討を進める方針を固め、山名持豊を中心とする軍勢などに討伐の役割を担わせることになります。

さらに、持之は朝廷に対しても赤松氏の討伐を正当化する綸旨を求めました。綸旨とは天皇の意思を伝える文書で、幕府が将軍を殺害した赤松氏を討つにあたり、朝廷の権威による裏付けを得ようとしたのです。

しかし、朝廷内には義教の強硬な政治に反発していた公家もおり、赤松氏の追討にすぐ賛成する意見ばかりではありませんでした。持之は過去の討伐命令の先例を示しながら朝廷へ働きかけ、討伐の正当性を認めてもらうための交渉を進めました。

同年9月、山名持豊らの幕府軍は播磨の城山城を攻め、赤松満祐は敗れて自害しました。持之自身が播磨で軍勢を指揮したわけではありませんが、将軍暗殺後に諸大名の意見をまとめ、追討の方針を定める役割を果たしました。

幼い足利義勝を後継者に立て、幕府を支える

赤松氏の追討と並んで持之が取り組んだのが、将軍の後継者を決めることでした。義教には複数の子がいましたが、持之らはその中から嫡男の足利義勝を後継者として擁立しました。義勝はまだ8歳であり、父のように自ら幕府の政治を主導することは難しい年齢でした。

そのため、持之は管領として諸大名と協議しながら政治を進め、義勝のもとで幕府の運営が続けられるようにしました。

義教の時代には将軍が訴訟や軍事の問題について直接判断することが多くありましたが、幼い義勝には同じような政治を行うことができませんでした。持之は諸大名の意見を集め、重要な問題への対応を決めていく役割を担うことになります。

また、持之らは義教によって処罰された人々を赦免し、以前の地位に戻す方針も進めました。義教の政治によって生じていた不満を和らげ、各地の武士を新しい幕府のもとにまとめ直そうとしたのです。

嘉吉の徳政一揆で徳政令の発布を認める

嘉吉元年(1441年)8月、京都やその周辺で徳政を求める土一揆が起こりました。徳政とは、この場合、借金の帳消しなどを認める政策のことです。当時の京都では土倉や酒屋が金貸しを営んでおり、借金を返せなくなった人々が土地や財産を失うこともありました。

一揆に参加した人々は、義教が殺害されて将軍が代替わりすることを理由に、借金の帳消しを求めました。以前の正長元年(1428年)にも将軍の代替わりに際して徳政を求める一揆が起こっており、その出来事を先例として、自分たちの要求を正当化したのです。

一揆は近江から山城へ広がり、京都周辺では土倉や酒屋が襲撃され、借用証文の破棄や質物の奪還が行われました。幕府は侍所の軍勢を使って対応しましたが、一揆の勢いは衰えず、京都の秩序を維持することが難しくなっていきます。

持之らは赤松氏への追討を進める一方、京都での一揆にも対処しなければなりませんでした。最終的に幕府は徳政令を発布し、山城国内で借金の帳消しなどを認めることになります。これが嘉吉の徳政一揆です。

管領を退き、細川勝元へ家督を譲る

1442年、病によって管領を辞任する

嘉吉2年(1442年)、持之は病を患い、政治の第一線から退くことになります。

前年には足利義教の暗殺という大事件が起こり、持之は赤松氏の追討や幼い義勝の擁立、徳政一揆への対応など、幕府の政治を立て直すために活動を続けていました。しかし、持之自身の病状が悪化したため、管領として政務を続けることが難しくなっていました。

同年6月24日、持之は病を理由に出家し、管領の辞職を願い出ました。6月29日には辞任が認められ、後任の管領には畠山持国が就任します。

その後も持之の病状は回復せず、嘉吉2年(1442年)8月4日に亡くなりました。将軍・義教が殺害されてから、わずか1年余りのことでした。

持之の死によって、細川京兆家の家督を継いだのは息子の細川勝元です。勝元もまだ幼く、一族や家臣たちの支援を受けながら当主としての活動を始めることになります。

ただし、京兆家の当主を継ぐことと、管領に就任することは同じではありません。勝元は父の守護職や家臣団を引き継ぎましたが、管領の役職は畠山持国が務め、その後に勝元も幕府の政治で重用されるようになりました。

弘源寺の建立と和歌に残る持之の足跡

持之は幕府の管領として活動する一方、寺院の建立や和歌にも関わっていました。永享元年(1429年)、持之は京都の嵯峨に弘源寺を建立しました。弘源寺は天龍寺の塔頭寺院で、持之が禅僧の玉岫英種を開山として迎えたと伝えられています。

当時の有力な武士たちにとって、寺院の建立は一族の供養だけでなく、禅僧との交流を通じて文化や学問に親しむ機会でもありました。持之も弘源寺を保護し、京都に細川家ゆかりの寺院を残しました。

また、早稲田大学図書館には、持之の自筆とされる『夏日同詠百首和謌』が所蔵されています。これは永享6年(1434年)頃に書かれたとされる和歌の巻物で、持之が詠んだ和歌をまとめたものです。

現存する巻物には欠損もありますが、持之が和歌に親しみ、自ら筆を執って作品を書き残していたことを伝えています。

政治家として知られる持之ですが、こうした寺院や和歌の資料からは、室町時代の有力大名として禅宗や文芸にも関わっていた姿がうかがえます。

足利義教の政治と将軍暗殺後の幕府を支えた生涯

細川持之は、兄の持元が亡くなったことで京兆家を継ぎ、永享4年(1432年)には管領となって足利義教の政治を支えました。摂津・丹波・讃岐・土佐などの守護として家臣や寺社の所領問題に対応しながら、京都では将軍の命令を各地へ伝える仕事にも携わっています。

さらに、永享の乱や結城合戦では幕府の軍事対応に関わり、嘉吉元年(1441年)に義教が殺害されると、諸大名を集めて赤松氏の追討を進めました。

その一方、幼い義勝を後継者として擁立し、嘉吉の徳政一揆への対応も迫られるなど、将軍を失った幕府の政治を立て直すために活動しています。

しかし、翌嘉吉2年(1442年)には病によって管領を辞任し、まもなく亡くなりました。

細川持之は、足利義教のもとで管領として幕政を支え、嘉吉の変で将軍が暗殺された後も、赤松氏の追討と幼い義勝を支える政治に取り組んだ守護大名でした。

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