室町幕府第7代将軍である足利義勝(あしかが よしかつ)は、第6代将軍足利義教の長男として誕生しました。父が嘉吉の変で殺害された後、幼少のまま将軍職を継承し、わずか1年足らずの在任期間を過ごしています。この時期の幕府では、管領や守護大名が政務を主導し、将軍の存在は制度上の中心でありながらも実際の政治運営は周囲の有力者によって支えられていました。本記事では、そんな足利義勝について詳しく解説します!
Contents
幼少期と後継者としての確立
誕生と養育環境
足利義勝は永享6年(1434年)、足利義教の長庶子として誕生しました。母は側室の日野重子であり、正室である正親町三条尹子の猶子となることで、将軍家の後継者としての地位が整えられました。幼名は千也茶と称され、誕生直後には畠山持国の邸宅に滞在したのち、政所執事である伊勢貞国の屋敷に移されています。
その後、義勝は伊勢邸で養育され、約8年間にわたりこの環境で成長しました。この養育体制は幕府の有力家臣の管理下に置かれる形で行われ、将軍後継者としての生活基盤が整えられていきます。室町第へ移るまでの期間、義勝は政治の中心から距離を置いた環境で育てられていましたが、その身分は将軍家の後継として明確に位置づけられていました。
嘉吉の変と将軍後継の決定
1441年、嘉吉の変によって父である足利義教が赤松満祐により殺害されると、幕府は急速に後継者の決定を迫られました。この事件の直後、義勝は室町第へ移され、管領である細川持之をはじめとする有力大名によって後継者とすることが確認されました。
同年8月には後花園天皇から「義勝」の名を与えられ、正式な後継者としての地位が整えられます。この時点では装束や髪型は童形のままでしたが、「室町殿」と称されるようになり、将軍として扱われる体制が整いました。嘉吉の変によって幕府の指導者を失った状況の中で、義勝は幼少ながら政権の中心に据えられる存在となりました。
将軍就任と幕府運営
元服と将軍宣下
足利義勝は嘉吉2年(1442年)11月7日、9歳で元服を行いました。烏帽子親は関白の二条持基が務め、同日に征夷大将軍に任じられています。これにより義勝は正式に室町幕府第7代将軍となりました。幼少での将軍就任であったため、元服の儀礼と将軍宣下が同時に行われる形が取られています。
将軍就任後、義勝は室町殿として儀礼的な中心に位置づけられ、幕府の公式行事や対外関係において将軍として扱われました。しかし年齢的に政務を直接執ることは困難であったため、実際の政治運営は周囲の有力者によって進められました。このように、義勝の将軍職は制度上の頂点として維持されながら、実務は別の担い手によって運用される体制の中で成立していました。
幕府の実権と管領政治
足利義勝の在任期間中、幕府の実務を主導したのは管領である細川持之でした。持之は嘉吉の変の後、幕府の秩序回復にあたり、赤松満祐の討伐を進めています。この討伐は幕府の権威回復を目的とした軍事行動であり、山名氏などの有力大名がこれに参加しました。
また、この時期には徳政令の発布を求める嘉吉の徳政一揆が発生しており、幕府はこれに対して対応を行いました。持之はこうした内政・軍事の両面に関与し、政権運営を担っています。その後、持之が管領を辞任すると、畠山持国や山名持豊、さらに義勝の生母である日野重子らが幕政に関与する状況となりました。複数の有力者による政務運営が継続し、将軍を中心としながらも実務が分担される体制が維持されました。
外交と対外関係
朝鮮通信使との会見
嘉吉3年(1443年)6月、朝鮮王朝からの使節である朝鮮通信使が来日し、足利義勝は室町第においてこれと会見しました。この使節は、前年に発生した嘉吉の変で死亡した足利義教への弔意を伝える目的で派遣されたものでした。
幕府は当初、義勝が幼少であることや、多数の随員を伴う使節の入京に伴う負担を理由に受け入れに慎重な姿勢を示しましたが、最終的には入京が認められました。通信使は約50騎の随員と楽隊を伴っており、正式な外交儀礼のもとで会見が行われています。この出来事は、義勝の治世においても外交関係が維持され、幕府が対外的な窓口として機能していたことを示しています。
将軍権威の維持と儀礼運営
幼少であった足利義勝のもとでも、将軍としての権威は儀礼を通じて維持されていました。朝鮮通信使との会見においても、将軍は幕府を代表する存在として公式の場に臨んでいます。年齢に関わらず、将軍という地位が外交や儀式の中心であることが示されています。
また、「室町殿」という呼称が用いられ、幕府内部においても将軍としての位置づけが明確にされていました。政務の実務は管領や守護大名が担っていたものの、将軍は制度上の中心として機能し、儀礼的な役割を果たしています。このように、義勝の治世では政治運営と象徴的権威が分担された形で幕府が運営されていました。
最期とその後の幕府
義勝の死去
嘉吉3年(1443年)7月21日、足利義勝は室町第において死去しました。享年10であり、将軍としての在任期間は約8か月にとどまりました。死因については複数の説が存在しますが、赤痢による病死とする見方が広く知られています。
義勝の死去は、将軍家の後継問題を再び浮上させる結果となりました。幼少のまま将軍となり、短期間で死去したことにより、幕府の政治運営は引き続き不安定な状況に置かれることとなります。この出来事は、将軍の権威と実際の政務運営との関係にも影響を及ぼしました。
幕府権力の変化
義勝の死後、将軍職は弟である足利義政が継承することとなりますが、義政も幼少であったため、幕府の実務は引き続き守護大名や有力者によって担われました。これにより、将軍の権限は相対的に低下し、守護大名の発言力が強まる状況が続きます。
また、嘉吉の変以降に進められた赤松氏討伐などの軍事行動も、有力大名が中心となって実施されました。この時期の幕府は、将軍を頂点としながらも、実際の政治運営が分散する体制へと移行していきます。義勝の治世は短期間であったものの、その後の幕府の構造に影響を与える時期となりました。

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