【日本史】武田信満とは?上杉禅秀の乱での敗死と甲斐武田氏の危機

武田信満のアイキャッチ画像。和紙風の背景に兜と鎧を着けた人物のイメージ画と「History 武田信満」の文字。 室町時代

武田信満は、室町時代前期に甲斐守護を務めた武田氏の当主です。父の武田信春から家を継ぎましたが、関東で起こった上杉禅秀の乱に加わり、1417年に追討を受けて自害しました。その敗死は、甲斐の武田家を長い混乱へ導きます。

なぜ甲斐の守護が、鎌倉で起こった争いに巻き込まれたのでしょうか。この記事では、禅秀との婚姻関係、足利持氏との戦い、敗死後に信重や信長がたどった道を解説します。

ひと目でわかる武田信満

武田信満は武田信春の子で、信重や信長の父です。甲斐守護として家を継いだ後、娘の嫁ぎ先である上杉禅秀を支援しました。しかし禅秀側は敗れ、信満も甲斐で追討を受けます。1417年の死後、子どもたちは帰国や家の再興に取り組むことになりました。

  • 1413年に父の信春が没し、甲斐武田氏の家を継ぐ。
  • 娘を上杉禅秀へ嫁がせ、関東の有力者と縁を結ぶ。
  • 1416年、鎌倉公方・足利持氏に対する禅秀の挙兵を支える。
  • 禅秀側の敗北によって、鎌倉府から追討される立場になる。
  • 1417年、甲斐の木賊山に退き、自害する。
  • 本家の当主を失った甲斐に混乱を残す。

甲斐守護が上杉禅秀の乱に加わった理由

信春の後を継いだ武田家と関東の政治

信満の父・武田信春は、塩山千野に館を構えたと伝わり、甲斐東部の寺院を援助した武田氏の当主でした。1413年に信春が没すると、家は信満へ続きます。信満が務めた守護とは、幕府から一国の軍事や警察を任された武士です。しかし甲斐守護の行動は、甲斐国内の問題だけでは決まりませんでした。

当時、京都には将軍を中心とする室町幕府があり、鎌倉には関東を統治する鎌倉府がありました。鎌倉府の長官を鎌倉公方と呼び、信満の時代には足利持氏がその立場にいました。公方を補佐する役が関東管領です。甲斐の守護も、こうした関東の有力者と関わりながら活動していました。

信満の娘は、関東管領を務めた上杉氏憲へ嫁いでいました。氏憲は出家後、禅秀と呼ばれるようになります。娘の婚姻によって信満と禅秀は親族として結ばれたのです。この関係が、後に鎌倉で始まる争いへ信満が加わる大きな接点になりました。

足利持氏に反旗を翻した禅秀を支える

1416年、上杉禅秀は鎌倉公方の足利持氏に対して兵を挙げました。禅秀はかつて持氏を補佐する関東管領でしたが、管領を退いた後、持氏に対抗する側へ回ります。公方とその補佐役を務めた人物の争いは、関東の武士をどちらに付くかという選択へ巻き込みました。

信満は禅秀側に加わります。娘が禅秀に嫁いでいたため、信満にとっては遠い鎌倉の争いではなく、親族と結びついた戦いでもありました。

禅秀の軍は一時、持氏を鎌倉から退かせましたが、持氏には関東管領・上杉憲基の支援がありました。将軍の足利義持も持氏側を支え、駿河守護の今川氏や越後守護の上杉氏が援軍を送ります。持氏側の巻き返しによって、戦いの流れは変わっていきます。

1417年の敗死と、甲斐武田氏が迎えた危機

禅秀の敗北から木賊山での最期へ

1417年、持氏側の反撃を受けて禅秀の挙兵は失敗し、禅秀も命を落としました。持氏が鎌倉へ戻ると、禅秀を支えた武士たちは追討の対象になります。信満も、甲斐守護としてそのまま元の立場へ戻ることはできませんでした。鎌倉府側の軍勢によって、甲斐で追い詰められていきます。

信満は最終的に木賊山へ退き、自害しました。木賊は現在の甲州市大和町に当たり、日川の上流にある山間の地域です。同地の栖雲寺には信満の墓があり、甲州市の文化財として伝えられています。鎌倉の政変から始まった争いが、一人の守護の最期につながったのです。

信満の死で武田氏全体が滅亡したわけではありません。しかし本家の当主を失い、子どもたちが別々の道で家の再興を目指すことになりました。

信重の出国と信長の抗戦、その後の甲斐

父が敗死した後、子の信重は甲斐を離れ、高野山で仏門に入りました。一方、信長は甲斐にとどまり、親族や家臣を集めて逸見氏と戦います。逸見氏は甲斐に根を持つ武士の一族で、信満の死後、逸見有直が強い力を持ちました。本家の当主がいなくなったことで、他の武士が守護の立場をうかがう余地も生まれたのです。

幕府は武田家の人物を守護として立てようとしましたが、任命するだけでは甲斐の武士を従えられませんでした。信満の弟・信元や子の信重が守護に任じられても、甲斐に入ることが難しい状態が続きます。信長が国内で争い、信重が国外にいるという分かれた状況も、家の再興を複雑にしました。

信重が甲斐へ戻れたのは1438年で、信満の敗死から約20年が過ぎていました。信満が禅秀を支えた選択の結果は、一代の死にとどまらず、次の世代へも影響を及ぼしました。

コメント

タイトルとURLをコピーしました