【日本史】松平清康とは?岡崎への進出と三河の勢力拡大、守山崩れを解説

室町時代

松平清康(まつだいらきよやす)は、安城から岡崎へ拠点を移し、三河で勢力を広げた戦国時代の武将です。松平広忠の父、徳川家康の祖父にあたります。1535年、尾張の守山で家臣に殺害され、勢力拡大は突然中断しました。この事件が「守山崩れ」です。

清康の活動には、東三河への進出に加え、家臣の相続への関与や大樹寺の造営がありました。各地の領主を従え、岡崎を中心に支配を広げた一方、松平一族の内部には対立も残っていました。

ひと目でわかる松平清康

松平清康は安城松平家を継ぎ、岡崎を足場に吉田・田原方面の武士を従えました。家臣の相続や大樹寺の造営にも関わりましたが、1535年に尾張の陣中で殺害されます。清康を失うと各地との結びつきは揺らぎ、子の広忠は一族の対立に向き合いました。

  • 1511年、安城松平家の松平信忠の子として生まれる。
  • 1523年に家督を継ぎ、翌年に岡崎へ進出したとされる。
  • 吉田・田原方面へ進み、東三河の武士にも勢力を及ぼす。
  • 大樹寺の秩序維持に関わり、1535年には家臣とともに多宝塔の建立を支える。
  • 1535年の守山崩れで死去し、子の広忠が一族の対立と今川・織田両氏の進出に向き合う。

安城から岡崎へ

安城松平家の継承

清康は1511年、松平信忠の子として生まれました。松平氏には岩津、安城、岡崎などを拠点とする家があり、安城家はその中から力を伸ばした一族でした。清康は1523年、父の隠居によって家督を継いだとされています。

ただし、安城にいた時期の清康には確実な記録がありません。初期の経歴や戦歴には、『三河物語』など後世の記録によって知られる部分が多くあります。

岡崎松平家との戦いと婚姻

1524年、清康は岡崎松平家の山中城を攻め落とし、岡崎へ拠点を移したと伝えられます。岡崎松平家の信貞の娘を妻に迎え、婚姻によっても岡崎の勢力と結びました。

このときの岡崎城は、現在の天守が立つ龍頭山ではなく、乙川南岸の明大寺にあったと考えられています。1527年に当地を訪れた連歌師の宗長も、明大寺に清康の城があると記しています。

清康はその後、1530年頃に乙川北岸の龍頭山へ本拠を移したとされます。

東三河への進出と家臣への統制

吉田城の牧野氏と田原の戸田氏

岡崎の東には、豊川下流の吉田城を拠点とする牧野氏、渥美半島の田原城を拠点とする戸田氏がいました。清康はこれらの勢力と戦い、東三河へ進出します。

1529年に清康が吉田城の牧野氏を破り、続いて田原の戸田氏を従えたされ、その後、作手・長篠・田峯・牛久保など各地の武士も従ったとされます。吉田城の攻略は、岡崎からさらに東へ勢力を及ぼす足がかりとなりました。

こうした動きは「三河統一」と呼ばれますが、各地の領主の所領を一律に取り上げ、清康が直接支配したという意味ではありません。地方の武士が城や所領を保ったまま清康に従う関係であり、その結びつきは清康の死後に大きく揺らぐことになります。

家臣の相続に関わる

清康が家臣の家に介入したことを示す文書もあります。中根家の家督相続について、実子がいる場合には、理由なく他人へ家督を渡すべきではないと述べた書状です。

所領や配下を持つ家臣の家で、誰が後を継ぐかは、軍勢や領国を維持するうえでも重要でした。清康は家臣を戦場に動員するだけでなく、家の継承にも関わって統制を強めようとしていました。

大樹寺の造営と岡崎の寺社

住職と末寺の関係を定める

安城松平家の菩提寺である大樹寺に対し、清康は1533年に制札を出しました。寺の規則に従わない僧への処分を住職に認め、修行や学問に励むこと、末寺が大樹寺に従うことを定めています。

清康は寺の秩序を支える檀越、つまり寺を経済的に支援する立場から、住職の権限を認めました。大樹寺は一族を結びつける寺でもあり、その整備と保護は清康が松平氏の中で地位を固めることにも関わっていました。

1535年の多宝塔建立

清康の活動を今に伝えるのが、大樹寺の多宝塔です。国の重要文化財に指定されたこの塔の心柱には、1535年の建立を示す銘が残されています。

銘によれば、清康は造営の中心となる寄進者である大檀那を務め、多くの家臣たちも寄進しました。塔は、当主と家臣がともに資金を出して支えた事業でした。

岡崎への進出に伴い、六所神社を迎え、1530年に龍海院を創建したとも伝えられます。城の移転とともに、松平氏に関わる寺社も岡崎へ集まっていきました。

守山崩れと松平氏の動揺

1535年、尾張の陣中で殺害される

1535年、清康は尾張の守山、現在の名古屋市守山区へ出陣しました。尾張で勢力を伸ばす織田信秀との戦いのためとされています。

ところが同年12月、清康は陣中で家臣の阿部弥七郎に殺害されました。主将を失った松平軍は退き、尾張への出兵は失敗に終わります。

弥七郎が父への処罰を誤解して清康を斬ったという話が伝わりますが、詳しい動機は確かではありません。松平一族の対立も背景にあったとも考えられています。

広忠の継承と三河の争奪

清康の死後、子の広忠は一族の松平信定との対立で岡崎を離れ、今川氏に援助を求めました。1537年には今川義元の支援を受けて岡崎へ戻ったとされます。

東三河でも、清康に従っていた戸田氏が吉田城を奪い、さらに今川氏が進出するなど、勢力関係が変わりました。三河は西の織田氏と東の今川氏が争う地域となり、広忠は両者の間で家を維持しなければなりませんでした。

1542年、広忠の子である後の家康が岡崎で生まれます。清康が拠点とした岡崎は松平氏に受け継がれましたが、家康の幼年期には、清康の代に広がった勢力をそのまま保てる状況ではなくなっていました。

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