【日本史】武田信親とは?海野氏を継いだ信玄の次男と武田の血筋の行方

武田信親のアイキャッチ画像。和紙風の背景に寺院で過ごす信親を描いたイメージ画と「History 武田信親」の文字。 室町時代

武田信親は、武田信玄の次男で、海野氏の名跡を継いだ人物です。竜宝・竜芳の名でも知られ、兄の義信や弟の勝頼とは異なる立場から、武田一族の歴史に関わりました。

1582年の武田家滅亡に際して甲府の入明寺で自害したと伝わりますが、その子の信道は生き残りました。信親自身の歩みと、戦国大名が滅んだ後も続いた血筋をたどります。

ひと目でわかる武田信親

武田信親は信玄と三条氏の間に生まれ、海野氏の名を継ぎました。幼い頃から目を患い、半僧半俗の生活を送ったとされます。武田家滅亡の年に入明寺で亡くなり、子の信道の系統が後に武田家をつなぎました。

  • 1541年、信玄と三条夫人の次男として生まれ、義信と同じ母を持つ。
  • 幼少から目を患い、竜宝・竜芳とも呼ばれる。
  • 海野氏の名跡を継ぎ、海野二郎を名乗る。
  • 半僧半俗の立場で「お聖道様」と呼ばれる。
  • 穴山信君の娘を妻に迎え、信道をもうける。
  • 1582年、穴山氏の離反に際して妻と離別したと伝わる。
  • 勝頼の死を知り、入明寺で自害する。
  • 信道の子孫が高家となり、武田の血筋をつなぐ。

信玄の次男として生まれた信親

義信・勝頼とは異なる立場を歩む

信親は天文10年(1541年)、武田信玄の次男として生まれました。母は三条夫人で、信玄の嫡男・武田義信とは同じ父母を持つ兄弟です。信玄には複数の子がおり、それぞれが同じ道を歩んだわけではありません。武田家の後継者となる者もいれば、別の家の名跡を継ぐ者、婚姻によって有力な一族と結びつく者もいました。

信親は幼いころから目を患い、やがて盲目になったと伝えられています。竜宝・竜芳、あるいは龍芳とも呼ばれ、僧侶でありながら完全に世俗との関係を断つわけではない「半僧半俗」の生活を送ったとされます。甲府では「お聖道様」と呼ばれたとも伝わっています。

兄の義信は武田家の後継者として育てられ、後には異母弟の勝頼が武田家を率いました。それに対して信親には、武田氏が信濃へ勢力を広げるなかで、別の家の名を受け継ぐという役割が与えられました。それが海野氏です。

信濃の海野氏の名跡を受け継ぐ

信親は信濃の海野氏の名跡を継ぎ、「海野二郎信親」とも名乗りました。名跡を継ぐとは、単に名字を変えることではありません。その家の名前や家格、それまで築かれてきた一族との関係などを受け継ぐことを意味します。

武田信玄の子が海野氏を継いだことにも意味がありました。武田一門を甲斐の本家だけに集めるのではなく、信濃に由来する家の名跡にも一族を配置することにつながったからです。

穴山氏との婚姻で生まれた信道

信親は家庭でも、武田一門の有力者と結びつきました。妻となったのは穴山信君の娘です。穴山氏は武田氏の一族につながり、甲斐南部の河内地方を中心に大きな勢力を持っていました。

そして信親とその妻の間には、信道が生まれます。この信道の存在は、後の武田氏を考えるうえで重要になります。信玄の子である信親から、その血筋が次の世代へ続いたからです。

しかし天正10年(1582年)、武田氏が滅亡へ向かうなかで、信親と穴山氏の関係にも大きな変化が起こりました。

入明寺での最期と子孫の継承

穴山信君の離反で家族の関係も変わる

天正10年(1582年)、織田・徳川勢による武田領への侵攻が始まりました。信濃や駿河など各地で武田方の拠点が崩れ、武田勝頼から離れる一族や家臣も現れます。そのなかには、信親の妻の父である穴山信君もいました。

穴山信君は勝頼のもとを離れ、徳川家康に従います。信親にとって信君は、単なる武田家の有力武将ではありません。妻の父、つまり義父でもありました。そのため穴山氏の離反は、武田家の政治や軍事だけでなく、信親自身の家族関係にも直接関わる出来事でした。

武田家が一つの勢力としてまとまれなくなっていくなかで、それまで婚姻によって結ばれていた一族の関係も崩れていったのです。

勝頼の死を知り入明寺で自害する

天正10年(1582年)3月11日、勝頼は田野で妻や嫡男の信勝らとともに最期を迎えました。これによって、甲斐・信濃などを支配してきた戦国大名としての武田氏は滅亡します。

勝頼の死を知った信親は、甲府の入明寺で自害したと伝えられています。数え年42歳でした。一方で、信親の死によってその血筋まで途絶えたわけではありません。息子の信道が生き残ったからです。

現在の甲府市住吉にある入明寺には、信親の墓や位牌が伝わっています。また、後の子孫によって作られた信親の木像も残されています。

息子・信道から武田氏の血筋が続く

信親と離別した妻は、息子の信道を出家させたと伝えられています。こうして信道は天正10年(1582年)の武田氏滅亡を生き延びました。

その後、信親から信道、信正、信興へと血筋が続き、この系統から江戸幕府の「高家」となる武田家が生まれます。高家とは、江戸幕府で朝廷との儀礼などを担当した家です。

信親の系統は、領国を持って戦う戦国大名とは異なる形で江戸時代まで続いていきました。

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