【日本史】北川殿とは?今川氏親を支え、北条早雲を駿河へつないだ女性

幼い龍王丸に寄り添い、館の庭を見つめる北川殿のイメージ 室町時代

北川殿は、駿河守護・今川義忠の妻で、今川氏親の母です。北条早雲として知られる伊勢盛時の姉または妹にあたり、今川氏と伊勢氏を結ぶ人物でした。

夫が戦死した後、幼い息子は当主の地位をめぐる争いに巻き込まれます。北川殿は盛時の助けを得て氏親を支えました。その家族の危機は、のちに小田原北条氏を生む盛時の駿河での活動にもつながります。

ひと目でわかる北川殿

北川殿は伊勢氏から今川義忠に嫁ぎ、夫の戦死後に息子・氏親の家督継承を支えた女性です。兄弟の伊勢盛時が争いに関わり、氏親は1487年に当主の地位を得ました。北川殿は氏親の死後まで生き、1529年に亡くなります。

  • 伊勢盛定の娘として生まれ、盛時と同じ家から駿河へつながる。
  • 駿河守護・今川義忠の妻となり、今川氏と伊勢氏を結ぶ。
  • のちの今川氏親となる龍王丸を産む。
  • 1476年、義忠が遠江で戦死し、幼い息子の継承が問題になる。
  • 小鹿範満との家督争いで、盛時の助けを得て息子を支える。
  • 1487年、盛時に支えられた氏親が今川氏の当主となる。
  • 1526年に氏親が亡くなり、家は孫の氏輝へ受け継がれる。
  • 1529年に没し、静岡の徳願寺に墓が伝わる。

伊勢氏から今川氏へ嫁いだ北川殿

伊勢氏に生まれ駿河の今川氏へ嫁ぐ

北川殿は、室町幕府に仕えた伊勢盛定の娘として生まれました。伊勢氏は備中に所領を持ち、京都の幕府とも深いつながりを持つ武士の一族です。北川殿の兄弟には、後に北条早雲として知られる伊勢盛時がいました。

北川殿は、駿河の守護を務めていた今川義忠に嫁ぎました。今川氏は足利将軍家と同じ足利一門に属する有力な武士の家で、室町幕府から駿河の守護に任じられていました。一方、伊勢氏は幕府の政務に関わる家柄であり、両家の婚姻は京都の幕府と駿河の守護家を結びつけるものでした。

当時の武家の婚姻には、家同士の関係を強める意味がありました。北川殿が今川氏へ嫁いだことで、伊勢氏と今川氏の間には親族としてのつながりが生まれたのです。この関係は、後に今川氏で家督争いが起こった際、大きな意味を持つことになります。

今川氏親を産み守護家の継承を支える立場となる

北川殿と今川義忠の間には、龍王丸という男子が生まれました。後の今川氏親です。龍王丸は今川義忠の子として、将来は今川氏の家督を継ぐ立場にありました。

しかし、戦国時代の武家では、当主の子であれば必ず家督を継げるわけではありませんでした。特に後継者が幼い場合、家臣や一族が別の人物を支持し、家督をめぐる争いが起こることもありました。今川氏も例外ではありません。

北川殿は今川氏の当主の妻であると同時に、次の当主となる可能性を持つ龍王丸の母でもありました。そして1476年、今川義忠の突然の死によって、北川殿は息子の立場を守らなければならなくなります。

今川義忠の戦死と龍王丸の家督争い

1476年に今川義忠が戦死する

1476年、今川義忠は遠江での軍事行動の帰途に戦死しました。義忠は遠江への勢力拡大を進めていましたが、その途中で当主を失ったことで、今川氏の内部には大きな混乱が生じます。

本来であれば、義忠の子である龍王丸が家督を継ぐ立場でした。しかし、龍王丸はまだ幼く、自ら軍勢を率いたり、家臣たちを統率したりすることはできませんでした。そこで今川一族の小鹿範満が、家督をめぐる有力な候補として浮上します。

今川氏の家臣たちは龍王丸を支持する勢力と、小鹿範満を支持する勢力に分かれました。龍王丸が家督を継ぐことになれば、幼い当主を周囲の家臣が支える必要があります。一方、小鹿範満を当主にすれば、すぐに軍事や政治を担えるという考え方もありました。

こうして今川氏の家督争いは、単なる親族同士の対立ではなく、誰が駿河の武士たちをまとめるのかという問題へ発展しました。北川殿にとって、息子が家督を継げるかどうかは、その後の立場を左右する重大な問題でした。

北条早雲の支援を受けて龍王丸を守る

今川氏の家督争いが起こると、北川殿は兄弟である北条早雲の支援を受けました。北条早雲は当時、伊勢盛時と名乗り、京都の室町幕府とつながりを持つ武士でした。北川殿の息子である龍王丸は、北条早雲にとって甥にあたります。そのため、北条早雲が今川氏の家督争いに関わった背景には、北川殿を通じた親族関係がありました。

北条早雲は今川氏の争いを収めるために活動し、龍王丸が成長するまでの間、小鹿範満が家督を代行する形での調整が行われたと伝えられています。しかし、この取り決めによって争いが完全に解決したわけではありませんでした。龍王丸は一時、駿河の小川城などに身を寄せたとされ、北川殿も息子の立場を守るために活動を続けました。

今川氏の家督争いは、龍王丸が幼い間だけの問題ではありませんでした。龍王丸が成長した後、実際に今川氏の当主として領国を治められるようになるには、小鹿範満から家督を取り戻す必要があったのです。

今川氏親の家督継承と北条早雲の活動

1487年に小鹿範満を倒し氏親が家督を継ぐ

1487年、成長した龍王丸は、北条早雲の支援を受けて小鹿範満との対立に決着をつけました。北条早雲は駿河で軍事行動を起こし、小鹿範満を討ちます。これによって龍王丸は今川氏の家督を継ぎ、今川氏親として駿河の支配を進めることになりました。

北川殿にとっては、1476年に夫の義忠が亡くなってから続いていた息子の家督問題が、ようやく解決したことになります。

しかし、氏親が家督を継いだからといって、すぐに今川氏の支配が安定したわけではありません。家督争いの間に今川氏の内部では家臣たちの立場が分かれ、領国の支配にも影響が生じていました。氏親は当主となった後、家臣団をまとめ直し、駿河の支配を固める必要がありました。

また、父の義忠が進めていた遠江への勢力拡大も、氏親にとって重要な課題となります。

北条早雲と今川氏親がそれぞれ勢力を広げる

今川氏親が家督を継いだ後も、北条早雲は氏親との関係を維持しました。北条早雲は今川氏の家督争いを支援したことで、駿河に活動の足場を築いていました。

その後、北条早雲は伊豆へ進出し、堀越公方の足利茶々丸を攻撃します。さらに相模へ勢力を広げ、後の後北条氏につながる領国の基礎を築きました。一方、今川氏親も駿河の支配を固めながら、遠江への進出を進めます。

こうして北川殿の息子である氏親と、兄弟である北条早雲は、それぞれ駿河・遠江と伊豆・相模で勢力を広げていきました。両者の活動を支えていた関係の一つが、北川殿を通じた親族関係でした。

北川殿の晩年と今川氏のその後

氏親が今川仮名目録を制定し領国支配を整える

今川氏の家督を継いだ氏親は、駿河の支配を固めながら遠江へ勢力を広げました。戦国大名として領国を維持するには、軍事力だけでなく、土地や年貢をめぐる争いを解決し、家臣たちを統率する仕組みも必要でした。氏親はこうした領国支配の整備を進め、1526年には分国法である「今川仮名目録」を制定しました。

分国法とは、戦国大名が自らの領国を治めるために定めた法律です。今川仮名目録には土地の争いや家臣の行動などに関する規定が設けられ、今川氏が領国を統治するための基準が示されました。氏親がこうした法を制定できるまでになったことは、家督争いを乗り越え、駿河・遠江の支配を整えてきたことを示しています。

しかし、同じ1526年6月、氏親は亡くなりました。

氏親の死後、今川氏の家督は息子の氏輝へ受け継がれます。そして氏親の妻である寿桂尼が、若い氏輝を支えて政務に関わるようになりました。北川殿が息子の氏親を支えたように、次の世代では寿桂尼が今川氏の家督継承を支える立場となったのです。

1529年に亡くなり徳願寺に墓が残る

北川殿は、息子の今川氏親が亡くなった後も生き続けました。氏親の死によって今川氏の家督は孫の氏輝へ移りましたが、北川殿が晩年にどのような政治的活動を行っていたのかについては、詳しい記録が多く残されているわけではありません。

そして1529年、北川殿は亡くなりました。

現在の静岡市には北川殿の墓が伝わる徳願寺があり、今川氏の歴史を伝える場所の一つとなっています。

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